23-2.手紙の届け主
夕食会の開催は、やはり破談となった。
蛍の方は、自身の評判に落ち込みながらも、どこか安心した。
もう大人数が集まって騒ぐのには疲れた。
長岡の郡司が、賢明な政治的判断を下したおかげで、蛍の方は救われた。
年若い女性たちは、一度はがっかりしたものの、やがて腹を立てた様子で、郡司にいろいろと文句を言って困らせているらしい。
蛍の方は、自身の苦悶を和らげるために、馴染みの森の中を歩いた。
木々は様相を変えつつあり、陽のよく当たるところでは芽吹きが進み始めていた。
いちばん陽射しの差し込むところでは、もはや冬の感じはしなかった。
この一晩で生まれたかと思うほどに、若々しくて柔らかな春がそこにはあった。
ひんやりした土の感触と、大気の澄み切った香りを堪能するうちに、気が付くと在原中将のことを考えていた。
もし彼がいまこの隣にいてくれたら――
蛍の方は、自ら置いてきた過去の思い出に浸った。
音羽山での冒険が目に浮かび、あそこでの在原中将がどれほど社交界にいるときと違ったかを想像した。
山の風に吹かれ、華やかな都の姿を前にして、二人の愛情が育ちつつあるのを知ったとき、あの旅路の中では、在原中将が自分のことを少しだけ好きになったのだと思った。
――あのとき、彼は本心で愛を伝えてくれていた気がする。けれども、口唇を合わせようとすることはなかった。もし自分からより関係を進めようとしていたなら、現在のわたしは全く違う場所にいて、何か別のことに夢中になっていたのかも知れない。
恋に後悔は付き物である。
この哀れな姫君は、束の間の甘い感情につよく胸を痛めた。
大気に漂う日光の波をぼんやりと眺めながら、森の大いなる静けさに少しずつ思考が緩やかになって行った。
まぶたが重く、目は閉じたり開いたりを繰り返し、危うく眠り込んでしまうところだった。
身を起したのは、陽が傾き出す頃合いだった。
少しだけ悲しみが薄れ、病気が軽くなった気がして、蛍の方はまた歩き始めた。
――どこへ行こうか。
もう行く先は残されていない。
森を抜けると、その先は旧都の東端である。
南北にひたすら長い道が続いて、その景色に心が重くなった。
人家と森の境界は、年々曖昧になっており、木々は道の方に枝を伸ばして、背も高くなって行った。
母親からよく聞かされた高名な僧侶の言葉に、諸行無常について説いた言葉があったような気がするが、彼女はその考え方が好きではなかった。
いま起こりつつある出来事だとか、人の決断や感情だとかをないがしろにして、自分だけ高みに立って諦めたような意見である気がして、少し不愉快だった。
蛍の方の心は、ずいぶんと成長したらしい。
自らの感傷を拒もうとするのは、大人びた思慮の一つである。
家に着くと、従者の男性が告げた。
「郡司の使いの者が来て、手紙を置いて行かれましたよ、蛍の姫君」
蛍の方は、ある決定的な瞬間が訪れたのだと理解した。
そこにあるのは、在原中将が燈明の下で、本心を巧みに隠しながら書いたものなのだ。
彼のことだ、おそらく当たり障りのない内容が書かれている。
重要なのは、その筆跡と細かな言葉遣いで、
今からよく読み解きをした上で、適切な返事をしなければならない。
――わたしにできるだろうか。
手が震えた。
手紙を引っ掴むと、奥の部屋の真ん中で、一枚開いて見た。
そこには見慣れない端正で揺るぎのない真っ直ぐな筆跡があった。
惟喬親王の名があり、ひどく驚いた。
文面には、こちらの苦悩にとって重要な情報が書かれていた。
友人全員のことを同等に扱っているけれども、在原中将については他の人びとに比べて詳細に書いているわけでもないのに、
惟喬親王らしい繊細な心遣いと、文章の技術が相まって、例の貴公子をまるで物語の主人公かのように見せているのは、流石としか言い様がなかった。
惟喬親王はこうやって自分の意図を表に出すことなく、注目して欲しい部分へと相手を導くことで、不遇な立場でありながら、長年の宮廷での政治をこなしてきたのだ。
この手紙から得られた結論は、蛍の方の疑念の一部には、少なくとも根拠があるということだった。
怖れていることは、昨日に実現したかも知れないし、そうでなければ明日にでも達成されるに違いない。
美貌の貴公子の暮らしは、相変わらず慌ただしくも華々しい社交の日々だった。
蛍の方については、話題にしたがらない様子で、無関心を装うふうに扱った。
何かのわけがあって、一時故郷に帰ったのだと人びとには認識されている。
この手紙が届いてから、ずっと座っては眠るのを繰り返した。
夕食は食べられないし、眠ることもできなかった。
次の日には、少し熱が出た。
従者の男性はひどく狼狽して、とにかく滋養に良いものを買い集めて、女主人に食べさせた。
鹿肉と木の実を煮詰めた薬膳のお粥が、美味しかった。
あまりに疲れて、気力が出ず、お粥を口にすると、いつぶりかの涙が出そうになった。
しばらくして井筒の姫君が姿を見せた。
彼女と会うのはずいぶん久しぶりな気がしたけれども、実際のところは、ほとんど日にちが経っていなかった。
家に入り、蛍の方がようやく起き上がれるようになったのを見て、部屋の入り口に立ったまま青ざめた。
「蛍の姫君、大丈夫ですか」
「季節の変わり目に少し体調を崩してしまったみたい。でも、もう元気ですよ」
蛍の方は、少し取り繕って見せた。
相手は、医者を呼ぼうか、何をしようかと、落ち着かない様子であったが、蛍の方の明るい表情を見て、やや安心できたようだ。
井筒の姫君は云った。
「蛍の姫君には元気になって頂かなければなりません。貴女に憧れる長岡の女の子たちが、みんな期待しているのですから」
蛍の方は、何の話をしているのか分からず、質問した。
「聴いていませんでしたか?」 と井筒の姫君は答えた。
「郡司が夕食会の開催に一転して前向きになったんですよ。何やら高貴な方から格別な計らいを受けたとか。蛍の姫君の長岡での生活を支援するように、山のような贈り物が届けられたそうです」
"高貴な方"とは、例の手紙の主なのだとすぐに理解した。
思いも寄らない有難さは、人を苦しめてしまうこともあるのだと、蛍の方は初めて知った。
失礼な悩みに葛藤を深くした。




