23-1.憧れの的
蛍の方の毎日は、桂川の辺りで時間を経過させるのに費やすことにした。
投網をする漁師がいて、自分も釣りなどをしてみたいと思った。
もし和琴の方が傍にいたなら、太公望に関する説話を教えてくれた上で、一緒に始めてみようと提案するはずだ。
あるいは、在原中将は、釣りをするのだろうか。
狩猟ばかりしている印象があるけれども、それは堪え性がなくて、釣りができないからなのかも知れない。
食事のあと、時間を潰すため、久しぶりに長岡の市街を一周することにした。
道沿いの草は、冬の寒さに痛めつけられて、その色彩を失っているけれども、木々の梢には硬く青々とした木芽がつき始め、光沢を放ち、新鮮な水分を蓄えて輝いている。
生まれつつある若葉の気配に、いち早く春の息吹を感じることができる。
街角で話をする年若い娘たちが、蛍の方を目にすると、駆け寄ってきた。
この地にも彼女の危険な恋の噂話は、十分に広がっていた。
年若い女性たちの一群が、蛍の方を質問攻めするのに比べて、
もう少し古風な道徳を守る中年の女性たちは、それを微笑ましく見守る人もいれば、嫉妬と非難の入り交じる視線をむける人もいた。
蛍の方は、いろいろ話を聞いたり答えたりするなかで、近いうちに郡司で夕食会を開き、その主賓として彼女を迎えることが、いつの間にか決まった。
郡司の娘は、自信たっぷりに、必ず成功させてみせると意気込んでいる。
もやは断ることなど、出来なさそうだ。
救いを求めるように周囲を見渡すと、井筒の姫君の姿が目に入った。
物陰に隠れて、誰にも気付かれたくなさそうな様子である。
目が合うと、恥ずかしさと嬉しさの共存する表情を浮かべた。
蛍の方は、自分だとすぐに分かってくれた事が嬉しくて、微笑んだ。
相手もその挨拶に応じた気がする。
蛍の方は、彼女にも喋らせようと試みた。
井筒の姫君は、ひどく緊張した面持ちだったけれども、前日よりも親しげになって、話に加わった。
郡司の娘に対して気まずさを感じているようだ。
承和の政変に、父親が加担して、郡司の役職を解任されるまで、井筒の姫君がその立場にあるはずだった。
両親が失望の中で、流行り病で亡くなり、一人で生きていくことを強いられた彼女にとって、少なからず辛い過去を憶い出させてしまう相手なのだろう。
郡司の娘もそれを知ってか、奇妙な敬意と、よそよそしさを伴う気遣いを示している。
蛍の方は、二人の間を取りもつように、陽気に振舞った。
場を盛り上げるためには、わざとらしさを感じさせるほどに陽気な態度を取ることが大切なのだと、二条の方から学んでいた。
蛍の方は、郡司の娘に要領よく問いかけつつ褒めたりすることで、本心に近い、くだけた調子で話をさせるのに成功した。
郡司の娘は、素直な明るさで、井筒の姫君に興味と関心を持ち、その行き場も身寄りもない生活に思いを馳せながら、包み隠さずに自分の内面を語った。
話し終えたとき、郡司の娘は云った。
「貴女には、必ず今度の夕食会には参加して頂きたいと思います」
「わたしが参加して宜しいのでしょうか? あまり相応しくないような気がします」
「そうでしょうか?」 と郡司の娘は言った。
「明日の自分の身に何が起こるか、予想できる人なんていませんよ。まして不運の理由は自分にあるとも限りません」
「しかし、父君は何と仰るでしょう。考えなければなりません」
郡司の娘は、じっと考えこむ様子になったが、やがてその表情を晴らして答えた。
「説得はしてみます。あとは降ってきたものを受け止めるだけです。仕方がないわ!」
一同は友人となって別れた。
帰り途、蛍の方はひどく疲れたと感じた。
二条の方の華やかな性格に由来する一流の社交術に比べると、自分はどれだけ努力してもその形を模倣することしか出来ないのだと、痛いほど理解させられた。
自分への失望感とともに、ここ半年近くの努力の全ては、無謀の一言で片付けられるだろうと感じた。
心は真っ暗な夜道を進むような気がした。
かつてよく感じた絶望と無気力が、再び蛍の方を襲った。
近況のつかめない在原中将の姿を想っては、じわじわ彼女を苦しめる未練と嫉妬が、胸に満ちあふれてきた。
手紙は残してきたのに、相手からは寄越してこない。
彼が何を考え、何をしているのかは、全く分からない状態である。
在原中将と、その周囲を取り巻く女性たちの姿が思い浮かんだ。
そのうち成就するかも知れない関係の進展ぶりを勝手に想像しては、また例の思いを強くした。
日々より深く体内に食い込むような痛みを知るほどに、自分以外の女性の中に誰か、在原中将の注文する通りのものを差し出せる人がいるはずだと感じた。
それなのに、蛍の方はといえば、未だに在原中将が何を要求し、どうしたら喜ぶのかすら分からない。
自分もまた一体何を望むのか理解できないままなのだ。
蛍の方が来た道を退き返していると、井筒の姫君が袖をつかんだ。
「蛍の姫君、本当にありがとうございました」 と井筒の姫君は云った。
「わたしは貴女にずっと憧れてきました。夕食会には必ず参加します。貴女に会うためにです」
そういうと、井筒の姫君は逃げるように立ち去った。
蛍の方は、自分がひどく惨めに感じられた。




