22-3.何気ない一日
外の音に耳を澄ませるうちに、井筒の姫君はだんだん心配になってきた。
門前に人の気配がして、胸が高鳴った。
官吏が治安維持のために巡回し、ぼんやり歩いて、目の前を過ぎた。
井筒の姫君は、また俯向き、緊張と待ち遠しさの間を何度も往復した。
――何をしよう? 外に出ようか? でも、変な振舞いをする人だと思われてしまうかも知れない。
井筒の姫君は、部屋の真ん中に座って、ただ時間が過ぎるのを待った。
蛍の方に近づいたはずなのに、何だか河辺にいるよりも、退屈で、深い孤独が迫ってくるような気がする。
定期的に鳴り響く生活音が聴こえるたびに、憂鬱と後悔が湧き上がってきて、自分がひどく惨めに感じられた。
頭の中で、何度も昨夜の夢と思考を繰り返し、やっぱり彼女の後を追うべきなのかと考えた。
そう決心すると気分が晴れた。
井筒の姫君が立ち上がると、従者の男性が、昼食はいらないのか訊ねた。
朝からうろうろして、お腹が空いていたので、すぐにでも食べたいと思ったけれども、遠慮した。
それよりも抑えがたい渇望があって、井筒の姫君は出発した。
旧都の長い通りは、一直線に南北を走り、左右には荒れたほかにはほとんど似たところのない家々が建ち並んでいたり、朽ちかけた柱木に絡みつく蔓草が空へ向かってのびていたりした。
人びとは各々の生活をゆったり営んでいる。
何も急いぐことも迫られることもない、捨てられた地で見られる穏やかな景色だった。
年老いた女性ばかりが目についた。
腰の曲がった総白の髪の女性が、簡素な衣服に身を包み、家事にいそしんでいる。
慎ましい生活には、寂しさに反して、ある種の高潔さのようなものが感じられた。
井筒の姫君は思った。
――こうした生活をどうしてわたしは望めないんだろう。
蛍の方の姿が目に浮かんだ。
美と洗練と優しさが共存し、誰にも分け隔てなく見せてくれる艶めきがある。
井筒の姫君は、求めても得られないものを思い、苦悩した。
愁いを払うために、歩みを進めることにする。
曲り角に入ったとき、彼女の期待する声が聴こえた。
とても親しげで、明るい口調だった。
「こんにちは、どうしてこちらに?」
「こんにちは、蛍の姫君……」
それから井筒の姫君は、言葉を継げなかった。
蛍の方は、相手の様子に戸惑いながら、提案した。
「何かご予定がなければ、お昼を一緒にいただきましょうか」
飲み物を何にするか、主菜を何にするか相談した。
蛍の方は、いろいろ訊ねることで相手に話をさせた。
井筒の姫君は、蛍の方がとても話が上手で、自然な優しさと、都ふうしなやかさを兼ね備えた大人の女性だと思った。
自分にとっての理想は、蛍の方に間違いないという確信をさらに強くした。
蛍の方はといえば、不慣れな役回りに、二条の方や在原中将の振舞いを思い出し、それ真似るのに一所懸命になっていた。
蛍の方は質問してみた。
「いつも何をして過ごされることが多いのですか」
「分からないのです」 と井筒の姫君は答えた。
「いつも何かしているようで、何も出来ていないような、そんな気分がしています」
「それはしばらく前から?」
「ここ最近はひどい気がします」
「それはお辛いでしょう」
「ええ、でも実際のところはあまり。よく分かりませんから。自分が何に悩んで、何を考えているのかも――それでも、お話をしていると少しずつ癒されて行くような気がします」
「嬉しい限りです」
二人は真っ直ぐ歩いて行き、家に帰った。
食膳に向かって、腰を落ち着けると、強飯に干鰯と蕪の羹物が運ばれてきた。
井筒の姫君は、ゆっくり食べながら、日の傾き始めるころまでそこに居て、
蛍の方が華やかに咲うのを眺めたり、本人も気がついていない魅力や愛嬌を見つけたりして、幸せな時間を過ごした。
前日と同様、御酒を一杯お腹におさめて家を出た。
街道の伸び始めた影を踏みながら、冷たい風が吹くと軽い陶酔感はすぐに消え失せて、また心の隙間に抑えがたい悲しみが忍び込んだ。
――これからどうしよう。こんな落ち着かない毎日をずっと繰り返して行くしかないんだろうか。それとも、またある日、蛍の姫君は突然に姿を消して、この苦悩も忘れられるんだろうか。
井筒の姫君は、自分の家に着いてからも、葛藤が頭から離れなかった。
何もしないまま一日を過ごし、ずいぶん遅くなってから眠りに就いた。
荒れた家に一人、はいり込む冷気から身を守るように上衣をひき被り、何か迫りくるものに怯えながら眠った。
満天の星空が、頭上で輝いていた。




