21-2.夢のかよい路
蛍の方は、考えるほどに気分が悪くなってきた。
決心は揺らいだわけではないのに、後悔とも違う不快感が心を支配した。
もう庭先も見ず、地平線を紫色に染める夕陽の残り日も目に入らなかった。
在原中将が友人たちに囲まれている姿、自分から彼の心を奪った復讐という名の遊興に耽るさましか、蛍の方は想像できなかった。
――もう考えるのは、本当に辞めよう。
立ち上がり、庭を通じて、大路のほうまで歩いて出てみた。
夜闇の底から吹くような冷たい風が、長岡の道を通り抜けた。
震えてしまいそうな感覚が、すでに悲しみに満ちた心を更に凍りつかせる気がして、家の中に戻った。
食膳には、温かな汁気の多い料理が並べられた。
在原中将が好きな雉鳥や猪肉を煮たのもあった。
蛍の方は、従者たちと会話をしながら、気が付くと食べ終えていた。
その後は、ついにすることをなくした。
けれども、何もしないでいると、先ほど襲われた不快感が、身と心に広がって行くような心地がして落ち着かない。
従者たちは、彼女の様子を気が付いて、むやみに話をすることはなかった。
横になり、目を閉じてからも、駄目だった。
心の中に在原中将がそっと入り込んできて、微笑みかけ、付きまとうと、そこから離れることはなかった。
眠れない。
気が付くと、いま在原中将は誰のものなんだろう、とつい考えていた。
――二条の方との恋を再燃させているかも知れない。三芳野の姫君が、自然と距離を近づけているかも知れない。あるいは草葉の姫君が、何かの口実を見つけて彼に迫ろうとしているかも知れない。みんな、あのお洒落で、引っ張りだこな、不器用な優しさしか持たない貴公子に夢中なんだ。彼は過去に復讐するために、その唯一の武器である美貌を用いて、人の心を征服し続けているんだ。なんて愚かで、非常識で、はた迷惑な、悲劇的な、華やかな生き方なんだろう。
蛍の方は、心を蝕む思考に取りつかれつつも、次第に意識が朦朧としてきて、感情の行先は少しずつ横道へと逸れて行き、在原中将のささやきをひたすら受け続けた。
一晩中、意識が切れることはなく、例の幻が彼女のまわりをうろついた。
それは蛍の方を小馬鹿にしたり、苛立たせたりしながら、少しずつ寝入るのを許したかのように姿を消して行くのだけれども、
彼女が忘却と無心に包まれた途端、またもや出現して、その度に胸を締め付けるような苦しさで追い詰めた。
待ち遠しかった夜明けとともに寝床から出て、頭痛でふらふらしながら、柱に手をつき、森の方に出かけた。
地平線から覗き出たばかりの朝日が、ほとんど葉のない木々の間を透かして差し込み、枯れ葉の絨毯にまだらな光の跡を残して行った。
ただ、歩くだけで息が切れて、力が抜けるような感じがする。
お腹の下の方がきりきり痛んで、疲労感を強くした。
この感覚を、蛍の方はよく知っていた。
耐えがたい重荷として身と心にのしかかる恋――
かつて彼女にひとつの決断を迫ったあの病疾なのだ。
――ずいぶん長いまわり道をしてきた。結局、わたしは同じところに帰ってきて、満足しているんだろうか。わたしは何を得ることができたんだろうか。愛情、栄誉、富貴など人は挙げるかも知れない。けれども、それは裏切りという結末に必ずたどり着くように出来ていた。
感傷を伴わない敗北は、絶望となるものである。
蛍の方は、いま感じている痛みの克服がきわめて困難かも知れないという怖れのせいで、神経が過敏になり、不気味な集中力の高まりを感じた。
このまま深い心の闇を覗いてしまったら、足先はまた水底に向いて歩みを進めることになるだろう。
この情けない女性は、自分の夢に負けたのだ。
母親からよく褒められた繊細さを、理性や判断力に向けるのではなく、傷痕をただ注意深く観察することだけにすり減らしてしまった。
自ら立ち上がるための努力と、心を鍛えるための覚悟に使うことをしなかった。
自分にとって居心地の良い世界しか見ようとしなかった。
かりそめの世界で苦しみ、得意になって、勝手に裏切られたようなつもりになっていた。
はじめから恋を叶えるつもりなんてなかったのかも知れない。
目の前の不安をごまかして、弱い自分を支えるために、過去を美化してすがっていた。
世界なんて見えないし、感じられもしないし、ここに居ないも同然なのだ。
それなのに、相変わらず彼はそばにいる、もう好きでいたくないのに――
蛍の方は、こんな考えが浮かばなくなるほどに疲れ果てたいと思った。
慰めの予感に期待して、足を一歩前に進めようとしたとき、いましているのは散歩ではなく、逃避なのだと気が付いた。
蛍の方は、黄金色の朝日に氾濫した森の中で、不幸を遠ざけるために歎息をついた。
まばゆい光を背にして、来た道を引き返す。
これが正しい道なんだ、と蛍の方は考えた。
再び見慣れた我が家に帰ってくると、入り口のあたりで一人の女性が、身を隠しながら室内をのぞき込もうとしていた。
蛍の方もよく知る必死さを伴う感情が、その仕草の全てに表れていた。




