21-1.別れの門出
早朝の最もまぶしい陽光が、平安京を照らしていた。
蛍の方は、玄関先で待つ牛車に、荷物を一つ包み載せた上で、踏み台に足をかけた。
昨夜のうちに、衣服や必需品はまとめて整理してある。
――長岡へ! と懐かしい響きとともに告げた。
誰にも報せなかったのは、例の貴公子の顔を見るのも、苛立つ心に耳なじみのある声を聴くのも、絶対に嫌だったからだ。
三芳野の姫君に仕える従者は言った。
「貴女がいなくなると、姫君は悲しむでしょう」
「でも、仕方のないことなのです」 と蛍の方は答えた。
「三芳野の姫君には、また必ず会いに戻ります」
「それが良いでしょう」
彼に見送られながら、牛車はゆっくり進み始めた。
かつては都を黄泉の国かのように怖れていた蛍の方も、さまざまな思い出を得て、ずいぶん慣れたものだ。
全ての始まりから、すでに半年以上が経過した。
死を願うほどに苦しめられた恋の病は、どこまで癒やされたのだろうか。
新たな感傷により問題を誤魔化しているに過ぎないのではないか。
あるいは、こんなことは一度忘れてしまうべきなのだろうか。
蛍の方は、物見から通りを眺めた。
牛車が朱雀大路に出ると、温かな陽ざしが一面に降り注いだ。
人通りの少ない穏やかな雰囲気があり、道行く人びとの表情は明るい。
貴族の邸宅の方に目を向けると、庭の木々は、寒さの中にも、枝先に硬いつぼみをつけて、忍耐のあとにある再生の兆しを見せた。
こんな気持ちの良い朝には、冷えた清澄な空気を胸いっぱいに吸い込み、その奥に感じられる風や土の匂いを味わいたい。
もう間もなくすれば、紅白の梅が美しさと香りで都を包むはずだ。
自分はその景色を見ることがあるのだろうか。
がたつく牛車に揺られながら、蛍の方は考えた。
――何度思い直してみても、やっぱり目の前にいない父親への復讐なんて馬鹿げている。
道程は長く感じた。
ほとんど眠れずに、我が身を嘆き、相手を呪い果たしたあとなので、心身ともに疲れていた。
神経だけが高ぶって、触れるものに敏感に反応する感じがする。
桂川の渡し場に着くと、男性がこちらにやって来た。
「お一人ですか?」
「はい」 と蛍の方は返した。
「失礼ながら先へ行くご用件をうかがいたい」
「長岡へ帰郷したいのです」
その様子をしばらく見て、男性は納得がいったらしい。
「近ごろは除目人事が過ぎたばかりですから、警戒を強くしておりました。基経卿の職位についても、いろいろ動きがあるとか。しばらく長岡で休まれると良いかも知れません」
間もなく川を渡す小舟が、蛍の方と荷物を対岸へ運んでいた。
牛車は浅瀬と中洲を越えて、あとに従った。
森は目覚めかけていた。
常緑の樹木が、厚みのある葉を旺盛に茂らせ、斜めに差す太陽の光に輝いている。
背丈の低い草などは、すでに色を枯らし、木々の根元に重なりつつあった。
かつては何度も往復したこの道も、気持ち一つで印象はずいぶん変わった気がする。
家に帰るのに、これだけ穏やかで安らかな心地がするのは、いつぶりのことだろうか。
少なくも家に母親の姿があった頃までは、遡らなければならない。
森を抜けると、崩れかけの塀壁の向こうに、建物の姿が見え始めた。
長岡には、異なる由来を持つ家々が、意外なほど多く建ち並んでいる。
かつての栄華を思わせる寂れた大邸宅もあれば、人気のない小家や、政変以後に移住してきた人びとの荒屋もある。
東三坊大路をひたすら南に下り、空き地に次いで、長い通りへ入って行くと、小さな家の列が左右に続いた。
今は人の住まない邸宅の前を過ぎ、牛車は停まった。
古い家は、数ヶ月前に遺した姿をそのままに、家主を出迎えた。
軒先を支える柱が少し傷んで、やや傾きかけてはいるものの、繊細な蛍の方らしい手入れの行き届いた家である。
小さな庭は、蔓草が伸び切っており、今や虫の住処だった。
自分でも気付かないうちに、見違えるほど美しくなった蛍の方は、他人から見れば不釣り合いに見える家の内に入ると、
――ここなら少しずつ癒されるかも知れない、と思った。
御者はその様子を見ると、満足した。
蛍の方は、報酬として自分の身に着けていた衣服を渡すつもりで話をしたところ、彼らは多くを望まないと言った。
また数名が家事と掃除の手伝いをすると申し出た。
彼らは数ヶ月間を蛍の方の従者として生活をともにしてきたのだが、その親切な心遣いと惜しまず対価を示し続けたことにより、一種の特別な思いを持つようになっていた。
蛍の方は、申し出に感謝し、一日かけて必要な作業を済ませると、気づけば夜になりかけていた。
蛍の方は、庭先が見える辺りに座って、景色を懐かしんだ。
夜の冷やかな甘い空気を吸い込んで、夕日が大通りに長い影を落とすのを眺めた。
二人の従者が、夕食を作りながら話していて、遠くでは農婦らしい声がぼそぼそと聞こえてきた。
また時おり、牛や犬などの動物の鳴き声なとが響き、猟師らしい男性の笑いを含む呼び声が入ってきた。
穏やかで、気持ちが安らいだ。
――書置きの手紙を読んで、みんなはどう思ったんだろう? これからどうするんだろう? いま、あの人は何をしているんだろう。夕食会が始まってもおかしくない時間だ。
在原中将が、二条邸の客間で、友人たちと親しげに会話をしている幻が浮かんだ。
――これが正しい選択だったんだろうか。
蛍の方は、怒りに似た感情とともに、寂しさを知った。
――あの場にいたかった、というのは、確かな思いだった。




