20-1.虚栄の行き先
一同が六条河原院の邸宅に到着した頃には、夜はずいぶん更けていた。
お酒とお喋りに酔わされた人びとは、すぐさま寝所へ向かい、静かな息を立て始めた。
在原中将は、どうも寝つけなかった。
予想していた衝撃がもたらされず、宙吊りにされた不安だけが残った。
牛車は都の底冷えする寒さに難儀して、重い足取りで彼を運んだ。
この動物の疲労感と似たようなものを、在原中将は胸の裡に感じた。
夜の暗い道程の先が、ずっと長く険しく続くように思われ、いつまでも安らぎは得られる気がしなかった。
御簾の奥から、凍え切った空気に冴える月の輪郭が見えた。
西方の空で小さくまばゆいほどに輝き、身と心に刺すような光である。
在原中将は、何を思うでもなく、寂しげな庭の景色を眺めた。
木々はすっかり葉を落としきり、無数の細く黒い枝先は、何かを求める手指のように空へと伸びている。
世界がまるで月明かりの陰影だけで作られたみたいな不気味な印象を与えた。
その中を、一人の女性の姿が動いた気がする。
足音も立てずに、池のまわりを移動し、しばらくして建物の裏に身を消した。
在原中将は、急いで体を起こすと、その後を追った。
枯れ葉が激しい風に舞い、乾いた音を立てる。
在原中将は、身をかがめ、髪が乱れるのを抑えつつ、歩みを進めた。
離れの一室にたどり着き、室内をのぞき込むと、女性の座り込む姿があった。
月明かりのせいか、肌は蒼白く、ひどく辛そうに見える。
在原中将は、優しい声で云った。
「じつに寒い夜ですね、月も凍えております」
室内には、火桶も燭台も置かれていない。
しばらく使われていないようで、床の上には薄っすらと埃子が積もっていた。
在原中将は、言い出した。
「もう少し寄り合いませんか」
蛍の方は、少しだけ目を開き合わせると、これに拒否することはなかった。
男は隣に腰かけ、さらに言葉を継いだ。
「悪くない一日でしたね。全員それなりに満足したようだ、わたし達を除いて」
相手は何も答えなかった。
蛍の方は、外行きの華やかな匂い襲の衣装を着たまま、力ない姿勢と寂しげな表情を取り続けており、彼女の秘める複雑な心の有り様そのものを体現しているようだった。
そこには蛍の方の触れてはならない真実が隠されている。
気品と憂愁との不釣り合いな重なりが伝える奇妙な危機感に、在原中将は立ち会っている気がした。
「業平さま、」 と蛍の方は消え入るような声で云った。
「どうして貴方の口から伝えて下さらなかったのですか? わたしは過去を恨んだりはしません」
在原中将は、時が訪れたことを悟った。
相手の想いをはっきり知るために、口にした。
「阿保親王は、赦されるべき男ではありません」
「そうでしょうか、」 と蛍の方は答えた。
「一つの生き方として、わたしは間違った選択をしたとは思いません」
「それで貴女が苦しんだとしてもですか?」
「その通りです。わたしは自分の父親がした選択そのものを恨んだことはありません」
在原中将は、歎息をついた。
「貴女の言葉は正気とは思えない。なんて甘い意見なんだ」
蛍の方は訊ねた。
「それでは、業平さまご自身が、傷付き、不名誉をかこちながら、ひたすらに寂しい一生を送ることを望まれるのですか」
「友人を裏切り、摂家に媚びへつらうくらいなら、その方がましだ」
「貴殿がその言葉を口にするには、すでに余りに多くの恩恵を受け過ぎております。撤回なさるべきです」
「蛍の姫君、わたしは貴女と喧嘩をしたいわけではない。他人の正義について、足を踏み入れることは止めましょう」
彼女は庭へ目を向けていたが、雪になる一歩手前のいちばん冷たい雨が、静かに降り始めていた。
人間の抱くことのできる愛情に落胆し、相手に対する一種の憎悪が、あの顔に向かって、捉えがたい魂に向かって、激しく燃え上がるのを感じた。
――わたし達は不幸なふりをしていた、と蛍の方は思った。
実際には、立ち直るための機会が何度もあったはずなのに、感傷に逃げて、自分がいかに恵まれない境遇であるかを主張するのに夢中になっていた。
これがもし遊びに行く予定や、ある種の浮ついた人間関係のような、毎日の慰めを求めるのなら、わたし達はどんな困難があろうと実行するだろうし、世間の悪評すらも進んで受け入れるだろう。
自分の虚栄を見せびらかすためなら、誰も彼も顧みることなく出かけて行くのだ。
在原中将にとっての恋とは、いつまでも誤魔化しに過ぎないのだろうか。
――そもそも叶うはずのない恋だった。
蛍の方は、以前とは異なる理由でこのことを確信した。
承和の政変が起きたその日から、すでに出会っては別れる運命が決定付けられた恋だったのだ。
二人はこの運命を変えようとせず、ただ決められた道筋に従って別れて行くに過ぎない。
蛍の方は言った。
「貴方から言ってくれさえすれば、良かったのに」
少しの沈黙があって、言葉を継いだ。
「それだけで良かった。わたしはそれだけで幸福をつかめる気がしていたのに」
立ち上がると、走って部屋を出た。
つまづきそうになりながら、彼女は心の中で、さよならと言った。




