3-1.源融との交流
二条邸の夕食会に参加している全ての人びとは、多かれ少なかれ女性主人に、それぞれかたちの違う恋をしていた。
初めて対面した日の嵐雨のような印象が過ぎ去っても、それぞれ胸のときめきを失うことはなく、客人たちは少しずつ、その心のなかに小さな持仏堂のようなものを造って行った。
本尊にあたるのが二条の方で、その魅力に取りつかれた人びとは、本人から遠く離れているときでも、つねに彼女のことを語り合い、いろいろに褒めたり、持ち上げたり、その日の雰囲気によって細やかな話題は変わるのだった。
けれども、その天女様の心を領めるのは、どこまでも"あの方"と呼ばれる貴公子のように思われ、ときに二条の方を敬愛する女性たちからの嫉妬と羨望を買った。
とくに"あの方"に対する批評の急先鋒は、桜花の方と菊花の方だった。
ふたりはいつも二条の姫君を楽しませる才能があるらしく、都ぶりなあつかましさや、根も葉もない空言によって、他人の痛所に触れない程度に巧みにけなす手腕を魅せて、周囲の人びとを笑わせた。
この御ニ方は、かつて例の貴公子のなま心を試そうとして、敗走したことのある口なのだ。
それでも、二条の方は自然にか故意にかはさておき、客人たちの誰か一人を長い時間、目立つ形で特別扱いすることのないように気を遣い、
成熟した色気を見せるにしても悪戯っぽい、滑稽なふうにするので、個性の強い人びとの間にも、不思議な調和が保たれていた。
ときどき、誰かが一人か二人、ほかの客人への好意として新たに紹介することはあっても、
ここでの会合はほとんどの場合、内側に鎖ざされており、参加の資格なども明確にされていなかったため、多少の出入りの異動はあっても、その顔ぶれは長らく変わることはなかった。
そんなふうにして二条の方は、世間の常識を逆撫でするパーティーの主催者として実に満足そうに振舞い、
蛍の方はというと、牛車の中で、顔色を悪くして、仔犬のようにがたがたと震えているのだった。
二条の方が重用する更衣が、二人に告げた。
「皆さまがお待ちです」
唐風の灯飾りを目白押しに並べたて、後宮を想わせるようなあでやかな橙光に包まれた館物のなか、
女性の頭が二つ、テーブルの上で書画に明るい源左大臣融が持参した絵巻を覗き込んでいた。
源左大臣は、二条の方の姿を見つけると、いかにも好男子らしく挨拶をするのだった。
「二条の姫君、あなたにお会いできるのを心待ちにしておりました。本日は以前にご所望でした高麗の筆置きを、松原を通じて手に入れることがかないましたので、こちらをお渡しいたしたいと思ったいたのです」
「なんて嬉しいことでしょう!」 と二条の方の表情がいっそう輝いた。
「それでは、もしかして"あの方"も今ごろ喜んでおられるのではないですか?」
「在原中将が求めておられた弓飾りもございます。全く子童のようにはしゃいでおられました。それはあの春日野の娘方も同様ですが」
源左大臣は、絵巻に夢中になる二人の姫君を指して云った。
「ところで、長岡の姫様はどちらに? まるで初夏の虫のように命をはかなげになされている、とうかがいました」
「なかなか素敵な物言いをなさるのね、『鶯々伝』の中からでも借りてきたのでしょうか? さあ、蛍、ご挨拶いたしましょう」
源左大臣が目にしたのは、想像よりもずっとはかなげで小さくなってしまった蛍の方の姿だった。
――おやおや、これでは竹取の姫君よりも、ずっと罪深いことをなされたのに違いない。さもなければ、これほどまでに小さくなることはないはずだ。
「怯えさせてしまいましたか、姫様。源左大臣融と申します。融とお呼びいただいても構わないのですよ」
そういって彼女の表情をのぞきこむと、とても良い香りがした。
「融さま、蛍といいます。どうか仲良くしていただきたいと願います」
これは蛍の方の人生のなかでも、いちばんまずい挨拶だった。
源左大臣は、部屋中に響きわたるほどに大笑いをして、涙ながら云った。
「これは可愛らしい! もし在原中将に冷たくされることがあれば、私のことを思い出だしていただきたい。私は今から貴女さまの最も親愛なる友人の一人ですよ」
源左大臣は、二人を部屋の奥の方まで案内した。
蛍の方は、左大臣という官位については、深く考えないことにする。
――そうでもなければ、緊張で押しつぶされてしまいそう。
蛍の方の顔色は、僅かな時間のあいだで、紅くなったり、青くなったり、白くなったり、ひどく移り変わるのだったが、
いまこの瞬間にはじめて彼女にお目にかかった人がいたならば、すぐに薬師を呼びつけて、安静を勧めていただろうことは断言できる。
だが、幸いにも"あの方"は席を外しておいでのようだった。
源左大臣は、あきれ顔で、蛍の方の手を取ると、改めて歓迎の挨拶と、謝罪の言葉を口にした。
「もうずっと前から、在原中将は貴女を捜し出すよう方々に使いを出しておりました」 と蛍の方にいった。
「それだというのに、よりにもよって貴女があらわれたその日に遊びにお出かけとは。まあ、すぐに帰られるでしょう。これは口を酸っぱくして言わないなりませんね、油断すると思わぬ機会を逃すことになる、と」
源左大臣は、背が高く、上品で、仕草がややゆったりとしていて、
控えめに開かせる胸元から、ぎりぎり覗くきれいな首まわりが、麝香のような芳りと合わさって、他人に比べようもない科を作りだしていた。
この光輝くような皇子は、優しげに蛍の方を見つめるのだったが、
彼女の方はというと、そうした振舞いに一体どんな意味があって、またどのような返答をするべきなのかを考えるのに必死だった。
「ありがとう、蛍の姫君」 と源左大臣は、可笑しそうに言った。
「わたしはこの短い時間にも関わらず、あなたのことがどんどん好きになって参りました」
そうして源左大臣融は、名残惜しそうに離れて行った。
次いで蛍の方は、紀氏の娘を紹介され、
だんだんとこのパーティーに参加している人びとの関係性が理解できてきた。
西京の女君は、きっぱりとした大人の女性といった感じで、容貌以上に気立てが優れていた。
都の右京には、人家はまばらで、盗賊や鬼が住むと聞いたことがあったから、このような方がいるとは信じがたかった。
おてんばな春日野の姉妹や、引っ込み思案な三芳野の姫君の保護者のような役回りを担っていて、人びとからの人望もあついのだという。
二条の方が重用する伊勢の更衣は、つねに冷静かつ配慮に長けた女性で、奔放になりがちな二条の方の手綱を握り、夕食会の秩序を保つことに貢献している。
源左大臣融と、最も親しい友人である陸奥の方との間に、騒乱の火種がくすぶると、それを仲裁するのも更衣の仕事であった。
陸奥の方は、ひどく勝ち気な女性で、自身が在原中将からの寵愛をもっとも受けていると公言してはばからないのだった。
その嫌味のない性格から源左大臣と馬が合ったのだが、ふたりは口を開けば、お互いを挑発しあい、いつの間にかむきになってしまった。
こうした都人らしくない陸奥の方については、それもそのはずで、彼女は東国からはるばる京の都へとやって来たのだった。