19-6.遊びはこれまで
在原中将は、今日の集まりに少しがっかりしながら、壁ぎわに置かれた唐椅子にていねいに腰かけた。
部屋中の客人の姿をなんとなく眺めると、それきり動かず、この家に来たことを嬉しくも後悔してる様子でもなかった。
兄の中納言行平からの説教を避けることはできたようだが、大勢による議論が延々と繰り返されているのにうんざりした。
草葉の姫君は、自信たっぷりな勝利者として、自らの誇るべき相手に近づいた。
「わたしの作品をもっとよく見て頂かなければなりませんよ、在原中将」
続けて草葉の姫君は、どれだけの苦労と工夫があって、例の絵巻を作り上げたのか、熱っぽく語り出した。
絵と文章の均衡を取り、それぞれの表現が得意とする部分を引き立て合うように構成し、言葉はわざとらしくなく、それでいて無駄な言いまわしを避けるなど、言い始めるときりがなかった。
自然と客人たちが二人の周囲に集まってきた。
陸奥の方は、顔を明るく輝かせると、期待していた出会いを果たしたかのように、こちらに歩み寄った。
どんな粗暴な意見が飛び出すかと、在原中将は意地悪な期待をしたけれども、
陸奥の方が口を開いた途端、じつに堂々として的を射た言葉が流れ出し、人びとの心を捉えた。
嫌味のない心から生じる荒削りながらも繊細な芸術論は、聴く人をいつの間にか納得させる力があった。
作られた優美さや技巧には見られない、素直で高らかな魂を感じさせる。
万葉の頃には、どこでも見られたはずの清澄な心は、今や平安京にあっては上品さにより入念に取り除かれてしまい、人びとは遠地に遺された懐かしい感性に、かえって新しさを感じた。
在原中将は、源左大臣にこっそり訊ねた。
「貴殿の入れ知恵なのか。下手をすれば身に余りますよ」
「陸奥の姫君にそんな難しい注文ができるはずがない。あれは紛れもない彼女の意見なのだ」
源左大臣は、皮肉を口にしながら、実施のところは、祝福するような調子で褒め称えた。
それから、陸奥の方の意見は、この議論で提出されたものの中で、最も素晴らしいものだということを少し述べた。
その声色は、豪快でありながら落ち着きがあって、相手の魅力をよく理解した親切な情愛と、明晰な思考とを伝えるものだった。
陸奥の方の意見に導かれて、人びとは改めて絵巻の上の表現の細部を確かめた。
自分たちの魂に迫るような、それでいて優美さを保つ作品を称賛し、一見しては分からない隠れた魅力までもを再発見した。
――どうも人びとは彼女の美意識に心酔しているらしい。
在原中将は、好感をこめて、その姿を見ていた。
ここで一人の召使いが、食事の用意ができたことを告げにきたが、主人の様子が見えず、間もなく退室したようだ。
二条の方は、三芳野の姫君を連れて、彼らの議論に加わると、慇懃な調子で、絵巻の作者らにいろいろな意見を求めた。
二条の方の本心について、有り体にいってしまえば、次作の予定があるのなら、少なからず資金と環境との提供に前向きなのだ。
交渉のための足がかりを作りたいのだが、自分一人では、つい喧しくなってしまう――
そこで、どうにか印象を和らげようと、控え目で気遣いに長けた三芳野の姫君を挟むことで、自然に話を進めることにしたらしい。
巨勢氏の画家は、同じ状況には慣れた様子で、穏やかな感謝の笑顔によって応じた。
草葉の姫君は、矜持が満たされていく感覚に震え、かなり前のめりになって話をした。
その様子を眺めながら、在原中将は水を口に含むと、一度正しく座りなおし、馴れてきて、くつろいだ態度を取った。
時おり、周囲に注意を払う仕草を見せた。
彼に感心を寄せたり、その美貌に見惚れてしまったりする女性たちに、礼儀として挨拶のような視線を返すためである。
桜花の方と菊花の方は、二人で親しげに話をする様子を取り繕いながら、
実際のところは、在原中将に近づくための手段を探り合っていたので、この返礼に心中では歓喜した。
在原中将は、お高くとまっていると見なされるのは、性向として好まなかった。
源左大臣は、笑いを含みながら、我慢できなくなった様子で言った。
「業平殿は、その癖をなかなか辞められないようだ。いつかはわたしも、そのまなざしに恋してしまうのだろうか」
在原中将は笑い出した。
「融殿の気取った言いまわしには、わたしはいつも胸を打たれていますよ」
「それは良かった!」
源左大臣は、表情を輝かせると、ややあってから続けた。
「わたし達は、お互いにずいぶん柔弱な身の振り方をしてきたらしい。そろそろ、素直な心で生きて行きたいものだ」
在原中将は、友人の戯談の中に込められた本心からの願いを受け入れ、微笑でこれに応じた。
世間にあらがい、過去をごまかすように、恋という名目で傷付きやすい感情を消費し続けるには、もはや疲れていた。
未熟な感性から生じる運命への憤りのようなものは、人を根拠のない反抗へ駆り立てることがしばしばである。
けれども、ほとんど多くの場合は、問題から目を逸らすばかりで、手元に残される成果というのは、せいぜい後悔と挫折なのだ。
在原中将は、自分の生き方を変えるのなら、先延ばしに出来ない課題があると気が付いてはいた。
自分の知らない生き方に、新しい価値観を選ぶことは、遠からず下すべき決断なのだろう。
それを知ることは、怖ろしくも不安でもあり、またひどく面倒な気がする。
このまま気付かないふりをしようと決め込みたい思いがあり、一方で近ごろは、確実に変わろうとする気持ちを抱かせる出来事がいくつもあった。
在原中将は、そうした気持ちを知らせてくれる一人の女性の姿を思い浮かべながら、客人たちの中を視線で追った。
陸奥の方は、真剣なまなざしに気が付くと、唐椅子に座る二人の男性の姿に目を留めた。
「融さま!」 と陸奥の方は叫んだ。
「皆さま、絵巻の表現については、彼にうかがいましょう。大変な教養をお持ちのはずですから」
源左大臣は、皮肉とも称賛とも取れる呼びかけに立ち上がると、歩みを進めた。
在原中将は、蛍の姫君の姿を探し続けた。




