19-5.運命と意志
中納言行平は、自身でも思いがけないことだったが、客間から姿の見えなくなった蛍の方を探していた。
後を追う義務などないはずなのに、部屋の中をひとまわりしたあとは、表廊下のほうを歩いて出た。
――わたしは一体何をしているのだろうか。
そう思いながらも、気にせずにはいられない。
邸宅の西に造られた釣殿に続く渡し廊下に、彼女はいた。
遠くを眺めるような、何にもほぼ魅力を感じないという表情で、何処とも言えない先を見つめている。
「話がくどくなりすぎましたか」 と中納言行平は声をかけた。
蛍の方は、微笑しつつ申し訳なさそうに答えた。
「そんなことはありません。かえって身に迫りすぎたのです」
中納言行平は、その言葉を引き受けてから、隣に立った。
背格好は、在原中将とほとんど変わらないけれども、姿勢の正しいぶん、すらりとして見える。
中納言行平は、相手の寂しげな笑顔のなかに、奇妙な色気のようなものを感じて、自らを諌めた。
客間のほうからは、賑やかな音が聴こえる。
とりわけ源左大臣と、二条の方の声は高く響いた。
彼らは各々の胸に強い印象を刻みつけた絵巻について話し続けた。
二条の方は、新たな表現を得たことで、本朝の文化水準は大きく引き上がると主張し、目の前にある品物が、作者の情熱によって美しく輝かしいものとなっている、と語った。
さらに、源左大臣はこの点にまつわる思想的な意見を説いたが、その言葉は緻密で、的を射ていて、しかし聴いていて疲れるものではあった。
「ところで、」 と中納言行平は云った。
「貴女の意見をお聞きしていませんでしたね。うかがっても宜しいでしょうか」
「かぐや姫の罪、のことでしょうか。あまり楽しいお話ではないと思いますが……」
中納言行平は、言葉を受けて続けた。
「それでも、お聞かせ願いたい」
ややあって蛍の方は口を開いた。
「かぐや姫の言葉によれば、月の都人には、老いも死もなければ、物思いもない、そうですね。しかし、彼女は明確に、それを嬉しいと思わない、と言いました。それで、わたしは思うのですが、彼女は"心"を知ってしまったのではないでしょうか? 道義の正しさや律令では、語ることのできない、さまざまな良し悪しを含む"心"を、です。月の王は、その不道徳を責め、地上へと追放し、多くの別れを繰り返えさせる運命に彼女を閉じ込めました。心がいかに人の判断を雲らせ、苦しい思いを引き起こすのか――それ知るための刑罰が、彼女の生きた物語だったのです」
「その通りかも知れません」 と中納言行平は言った。
――これほど機微に通じた女性には会ったことがない。
中納言行平は、胸が震えた。
じぶんは祖父の平城帝に始まる氏族の没落の運命に抗うため、道義に背かない手段であれば、全てを講じてきたはずだった。
祖父は自らの恋と野心で破滅し、父親の阿保親王は他氏を裏切っても宮廷で生き残ることを選んだ。
中納言行平が取るべき行動は、自然と決定付けられていたようなものである。
恋や私情にまどわされず、生き残ること優先し、栄達の道を一族の後世に残すのだ。
道義と理性を信じ、突き進んできた中納言行平にとって、蛍の方の言葉は、その生き方を否定するものと感じられてもおかしくはなかった。
けれども、一縷の迷いのようなものが、彼の心にあったのだろうか。
中納言行平は、自分でも驚くほどに相手の言葉を自然に受け入れ、これを肯定してしまった。
長年抑えてきた心の一部の高まり、思いがけない出会いから理性の平静さを失いつつあるようだ。
中納言行平は、それを自覚しても、もはや止めることのできない運命にあるのだと知った。
彼女の本心をもっと聞きたい、という願望に突き動かされて、
めったに口にしたことのないような、あるいは、するべきでないような痛所にあえて触れたのだ。
「橘の姫君、わたしの父親は過去を後悔などしていませんでしたよ。それにわたしは彼の選択は正しかったと信じています」
蛍の方は、突然の呼びかけに言葉を失った。
橘の氏姓について触れられるのは、二度目である。
蛍の方は、過去への願いと恐怖とを宿した視線を相手に向けた。
哀願するような眼差しに、中納言行平は思わず目を反らし、じぶんは踏み越えてはならない一線を犯してしまったと理解した。
あまりに弱く、あっけない自らの理性と節度を呪った。
この場を穏便に済ませるだけの真実も言い訳も持ち合わせてなどいない。
中納言行平は、沈黙だけを答えとして差し出すと、彼女の知るべきではない因縁を、その口とともに閉じようとした。
「行平さま、」 と蛍の方は云った。
「父君は過去に何をなされたのですか? わたしは、どのような事実であっても、それを否定しようとは思いません」
蛍の姫君の言葉に偽りはない――
そう確信させるだけの決意が込められているような気がした。
彼女はどこまで過去を知っているのだろうか。
本当に全て何も知らないのか、あるいは断片的な事実は聞き知っており、確信に到るまでのあと一欠片を手に入れたいと思っているのか、それとも何もかも分かった上で自分を試そうというのか。
中納言行平は、答えを迷った。
何度も考えを行ったり来たりしながら、自らを情けなく思い、また相手の心根の強さに尊敬の念を抱いた。
自分を律して生きようとする人間ほど、いざという時に弱い者はいない。
――この真っ直ぐな意志を弟は得たいと思っているのだろうか。
中納言行平は、悲嘆のなかに一つの答えを知るような気がした。




