19-2.草葉の姫君と敵対心
在原中将が目立たないように、気配を消しながら客間に入って行くと、一人の若い女性が絵巻に夢中になっているところだった。
在原中将を視界で捉えると、彼女は嬉しさに敵対心が入り混じる様子で、目を輝かせて立ち上がった。
「在原中将!」 と彼女は叫んだ。
客人の視線が全てが声の先に向けられた。
美貌の貴公子に会ったことのない女性の多くは、ひそひそ悪評をささやき合いながら、実際のところは、道ならない恋の予感に胸をときめかせた。
――それでは後ろにいる女性がうわさの姫君なのではないか?
誰かが三芳野の姫君を指して言った。
――そうに違いない。
――思ったよりも派手な人物ではないようだ。
――可愛らしい方。
――どうも田舎じみてはいないか。
こうした言葉があちこちでささやかれた。
顔を俯向ける三芳野の姫君の姿を見て、在原中将は挨拶をした。
「皆さま、到着早々にお騒がせして申し訳ありません。こちらの姫君は以前からのわたしの友人で、この度、宮廷に出仕することとなりました。どうか親しくして頂きたい」
これに続いて、三芳野の姫君は、緊張に声を震わせるながら、頭を下げた。
「とても良い子なのよ」 と二条の方は付け加えた。
「わたしと一緒にご挨拶に上りますから、皆さま宜しくお願いしますね」
客人たちは落ち着きを取り戻し、その言葉を迎え入れた。
例の姫君は、どこか不満そうな様子である。
中納言行平が、蛍の方に言った。
「貴女の評判は、なかなかひどいもののようですね。決してそのような性格とは、お見受けしませんが」
蛍の方は、不意の出来事から、止めどない噂説が立ってしまったのだと説明した。
「世間とは、そのようなものです」 と中納言行平は云った。
「しかし、弟とその友人たちは、重大性を理解しようとしない。あるいは重大性を理解した上で、あえてやろうとしている。率直に申し上げて、正気とは思えません」
蛍の方は、強く否定はできなかった。
「せっかくですし、わたしが室内を少しご案内いたしましょう」 と中納言行平は云った。
「本当なら弟にいろいろ言って聞かせたいことがあるのですが、あの様子では、しばらく難しそうだ」
在原中将の行く先には、例の姫君がまとわりついて、いろいろ文句を垂れていた。
部屋の一方では、桜花の方と菊花の方が顔を見合わせると、ひそひそささやき合った。
口調や仕草からして、都出身の女性であることは分かる。
「気になりますか、」 と中納言行平は云った。
「彼女は草葉の姫君と呼ばれております。これら絵巻の製作者の一人です」
大机の上には、『竹取物語』を描いた絵巻が並んでいる。
繊細な筆使いによる人物表現や、背景のていねいな描き込みに、柔らかな女性らしい詞書きが添えられ、一つの作品としての優美さを有している。
「草葉の姫君は、以前から物語の編纂に関心をお持ちでしたので、詞書きの製作をお願いしたのです。やはり正解でしたね」
自分にはない知識と教養が紙面から感じられ、複雑な思いがした。
中納言行平曰く、草葉の姫君が在原中将に執着するのは、宮中での些細なきっかけからだった。
藤原一門の娘に生まれた草葉の姫君は、幼い頃から才知にあふれ、大いに甘やかされて育ったことから、かなり気の強い女性だった。
成人してからは、今上の帝の中宮に仕えることになったのだけれども、そこで在原中将について話題となった。
草葉の姫君は、年若い女性に特有の強い口ぶりで、在原中将を批判した。
「実際のところ、あのような男がどうなろうと構いませんね。あんなのはどうせそこらに生えた草葉に過ぎません。そのうち、どうなるか見てやりましょう」
自らの言葉で、周囲の女性たちが大笑いするのが心地良く、どんどん物言いはきつくなって行った。
御簾の奥に男性の影が立った。
やがて、くすぐるような優しい声が聴こえる。
「罪もない人を呪ったりすると、単なる草どころか、忘れ草が生えることになりますよ」
女性たちは話題に夢中で、近くを通る男性の姿に気が付かなかった。
――あれが在原中将なのではないか。
正体に思い至ったときには、すでに影は消えていた。
多くの女性たちが、気恥ずかしさやら、申し訳なさやらを抱くなか、
草葉の姫君は、してやられた、と悔しがった。
現在の彼女は、次こそは在原中将を言い負かしてやろうと、敵対心を燃やしているのだ。
中納言行平は云った。
「悪意のない方ではあるのですが、どうも我こそが一番でなければ、気が済まないところがあるようです。弟はそれを知ってか、からかっているのです。なぜ女性にそれほど悪意ある態度をとれるのか、わたしには分かりません」
中納言行平は、草葉の姫君について語っているようで、結局は弟への不満を口にせずにはいられないようだ。
蛍の方は、そこに一種の愛情のようなものを感じるけれども、二人の立場や性格にこれほどの違いを与えるものは何なのか、つい考えたくなった。
――もしも自分も生まれや立場が変われば、全く違う人生を歩み、異なる夢を見て、納得のいく身の振り方を選ぶことができるのだろうか。
蛍の方は、つい願望めいた奇妙な想像にとらわれた。
二人の兄弟は何を考え、何を目指して、各々の生き方を選んだのだろうか。
蛍の方には、分からないままに、絵巻の内容について説明を受けた。




