19-1.中納言行平との出会い
都へと牛車が進むたびに、蛍の方は自分がかけがえのない捧げもの、あるいは果てしなく高価な贈りものを運んでいる気がした。
こんな捧げ方をするとしたら、その喜びは犠牲という感覚と切り離せない。
相手の虜子であることに酔うのではなく、むしろ物惜しみしない自分に対する矜持や、誰かを幸せにしているという満足感が、そこにはあるはずだった。
鳥羽の森は、すっかり葉を落とし、生物の息づかいのようなものが、まるで感じられない。
もう少し要求を拒んだ方が、在原中将の感心を引くことができるのではないか、と蛍の方は推測した。
それは空腹と同じで、満たされないほどに欲求は高まるのだ。
今度からそうしてみよう、と意志を固めるとともに、自分はいつから嫌な公算をするようになったのかと、蛍の方は不愉快な思いを抱いた。
外の景色は、変わらず荒涼たるさまである。
吹き抜ける風が、木々を不気味な音を立てて揺らし、その遠くに水の流れる響きが聴こえる。
――少なくとも今日はめいいっぱい楽しむようにしよう、と蛍の方は決めた。
心持ち一つで、冷たい季節の中を行く苦痛が少し楽になった気がした。
些細な心の変化に、自然な冷静さを取り戻しつつ、ごく普通のことが、なぜ自分にとってここまで耐えがたいのか、その理由を考えた。
おそらく物事に付随する無数の気遣うべき細部を、前もって想像しすぎていたのではないだろうか。
針に糸を上手く通せないような、散らかった部屋の中から必要な小物だけを探し出すような、小さなたくさんの心労の積み重ねに嫌気が差していたのだ。
蛍の方は考えを整理した。
――わたしはどうやら自分が想像していたよりも、遥かに疲れているらしい。
何か予定を立てたり、約束したりすることは、本来とても楽しいことであるはずなのに、今は仕事の打ち合わせだったり、診問の取り付けだったりするみたいな、億劫な感じがした。
定期的にもたらされる新しい人間との交流や賑わいには、大切な喜びが欠けていた。
相手は誰であっても同じような世間話に、社交辞令を重ね、とりわけ以後も親しくすることはない、全く意味のない時間があった。
都に行かなければならない。
自分に好奇の目を向け、品定めするような視線にさらすために、都に行くのだ。
牛車は一歩ずつ確実に、蛍の方を鑑賞会の場へと運んで行った。
蛍の方は、袖口に入れてあった竹筒をつかむと、中身を一口飲んだ。
甘味が広がり、苦痛は少し和らいだ。
中納言行平の邸宅は、右京三条大路の、彼が管理する奨学院から少し離れたところにあった。
奨学院とは、官吏を育成するための教育機関である大学寮に付属して、特定の氏族が設置した別曹の一つである。
中納言行平は、やはり宮廷で勢力を得ることに熱心なようだ。
蛍の方は、邸宅内の客間に通されると、意識の行き届いた設えに驚いた。
几帳や壁布には、一切のしわがなく、艶やかに糊付けされている。
大陸から輸入したと思われる大机の上には、絵巻物が整然と並べられ、客人たちの目を惹いた。
唐菓子や飲み物は、さまざまな種類が用意してあり、各々の嗜好に答えられるよう心配りがなされていた。
蛍の方は、余りに二条邸の夕食会と違いすぎる、と思った。
大勢の客人がいるというのに、落ち着いた雰囲気を保ち続ける一室である。
圧倒される蛍の方を見た従者が合図を送り、それが伝わると、部屋の奥から一人の男性がこちらにやって来た。
「ようこそお越しくださいました」 と男性は恭しく云った。
「貴女が蛍の姫君ですね、本日は参加して頂いたことを感謝申し上げます」
蛍の方は、中納言行平の姿を目に映した。
緊張する相手と出会ったときはいつもそうするように、見詰めすぎないくらいで、慎重に態度と表情とを眺め、足先から髪毛まで点検するように視線を往復した。
枯野襲の直衣をきっちり着こなしている。
略装にも関わらず、だらしなさを感じさせる隙は一分もなく、顔の造形にだけよく注目しなければ、在原中将の兄だとは分からなかった。
中納言行平は云った。
「弟がひどくご迷惑をおかけしているらしい。この場を借りて謝罪させて頂きたい」
蛍の方がそれを否定しようとすると、後ろから二条の方が、部屋の飾り布をくぐって、姿を現した。
「お久しぶりね、行平殿」
中納言行平は、彼女の姿を目にすると、概ね柔らかな表情で応じたが、一瞬だけ苦々しい笑みが含まれた。
「二条の姫君、全く以てお久しぶりです。弟はまだ世話になっているのですか」
「はい、もちろん。いつもわたし達で可愛がって差し上げております」
口振りから、その"わたし達"には、自分も含まれているのだと、蛍の方はぎょっとした。
最近の二条の方は、もともとの性格に由来する挑発的な物言いが激しくなっている。
何か火種を探して、自分で油を注ごうとするような、危険な遊び方がくせになりつつあるのだろうか。
玄関からこちらへと通じる表廊下では、三芳野の姫君が室内の様子を窺っていた。
「兄はいますか?」 と在原中将は小さな声で訊ねた。
「はい、いらっしゃいます」
在原中将は、深い歎息をついた。
「お願いですから、わたしを一人にしないでくださいよ」
「承知しております」 と三芳野の姫君は答えた。
これから始まるだろう説教の数々に、在原中将は覚悟を決めるように息を深く吸った。




