2-2.野心と高潔さ
二条の方の叔父君――つまり、藤原摂政良房は、彼女の大胆な性格にもっとも大きな影響を与えた人物とみて、間違いはないようだ。
藤原氏族の次男として生まれた良房卿は、その豪快な政治手法を用いて、仁明朝での権力の空白を一気に埋め合わせるように、見るみると台頭して行った。
廷臣として実務に秀ぐれ、時の帝の皇女を妻に迎えるという異例の待遇を得た。
嵯峨帝は、実兄である平城帝との皇位をめぐる争いに勝利してのち、
少なからず彼に助力した藤原氏の特定の一門を、あからさまに優遇し始めていたのである。
良房卿は、そのなかでも類いまれな気高く雅びやか身なりを気に入られ、兄弟の中でも、飛び抜けて出世を重ねていたのだった。
そこで、彼の実兄である中納言長良は、自身の子女を弟の養子にさせ、自らの一族の繁栄を託すことにした。
実兄の中納言長良は、高潔で心が広く、多くの弟たちに官位で先を越されたが、
それを決して嫉まず、貴人には礼節をもって接し、臣下には寛容をもって応じていた。
仁明の帝には、対等の交わりを許されても、彼が他人に対して慣れなれしい態度をとることは死ぬまでなく、忠悌を有得した人物であると、人びとから称賛されたものの、それだけに出世は遠のくのだった。
そして、このとき良房卿の養子となったのが、のちの摂政基経と、ほかでもない二条の方なのだ。
二条の方にとって、叔父の良房は、穏やかな性格の美男子であり、人前で決して怒りをあらわにすることはなかったが、
友人と酒を飲みながら戯談を言い合うのが大好きで、徹底した現実主義者かと思えば、ときに危険な賭けに出ることも厭わない人物だった。
二条の方の元夫である清和の帝は、そんな良房のことを頼りにしつつも、どこか疎ましくも感じていたようだ。
嵯峨帝の死後、良房卿に敵対的な態度を取り続けてきた親王のひとりが、ありもしない謀叛の疑いをかけられ、処罰される事件が発生したのだが、当時の宮中では、良房卿の策謀であるとの噂話が広まっていた。
とはいえ、世間の人びとは、良房卿が、かりに彼に血縁のない親王だとしても、まさか嵯峨帝の子息にそのような手を下すとは信じていなかった。
だが、その噂話は、間違いのない事実なのだった。
良房卿は、嵯峨帝との政争に敗れた皇族の子弟らと結託し、皇太子としての地位を追いやることを決めていた。
もし、清和の帝――すなわち二条の方の元夫が、いまの彼女の姿を目にしたら、いったいどんなふうに批判するのだろうか?
そう彼女は、時どき考えてみるのだった。
――わたしは年を経るごとに、どんどん叔父上に似てきている、と二条の方は信じていた。
京の郊外に邸宅をかまえ、そこでの夕食会には、彼女の気に入った人間だけを選び出し、現世のいかなる前例や規則にも拘われないでいるその姿は、まさに叔父である良房卿の生き写しであり、清和の帝にとっての苦痛の種になるだろうことは、想像に難くない。
それでも、止みがたい自由と退廃への渇望は、あなたとの結婚生活によって作られたのよと、二条の方は思うのだった。
多くの歌人や文化人が、ひそかにこの夕食会に参加し、都の人びとの羨望を集めた。
六条河原院に唐風の壮麗な庭園を造らせたという嵯峨帝の第十二子、源左大臣融が親交ある姫君に連れられてきたかと思えば、清和朝廷では雅楽頭に任じられた文化人、紀有常が管弦の演奏会を展く。
詩文の才覚に優れた女性たちは、周囲に遠慮することなく唐の艶色小説『遊仙窟』の読書会を行い、その内容をふまえた和歌をいくつも創り、東西に分かれて互いに出来映えの優劣を比べ合うのだった。
二条の方は、そのような友人たちに囲い込まるようにして世間の目から守られ、また夫の権限のもとで交友関係を持たされていた時期について、いやな思い出をいだき続けているせいもあって、賢明なことにも知り合いを増やしすぎないようにした。
自分のことが都でどう言われ、どう思われるのかを考えるのは、嬉しいと同時に怖くもあったので、色好みめいた自分の性格に身をゆだねるのも、身分ある女性らしく慎重に行うようにした。
評判を気にして、中庸を守り、勝手に振舞うようでいて羽目を外さず、大胆な行動もほどほどに抑えて、分かりやすい色恋やら政治的な駆引きやらには、自ら関わらないようにした。
もちろん、身分を問わず、多くの好男子が二条の方に愛をささやいた。
けれども、成功した者はいないらしい。
彼らは自らの悲劇的な試みを友人同士で打ち上けあって驚いた。
というのも、二条の方のような奔放な女性が、目の前にある歓びを味見もせずに捨て置くなんて、どうしても認めがたいことであり、彼らの判断は全くもって正しかったからだ。
そこで人びとはこう推測するようになった。
結婚生活の初めに、夫との関係があまりにも上手くいかず、予想だにしない要求をいろいろと突きつけられたので、男性に対する恋愛感情を永遠に失ったのだ、と。
彼女の夕食会に参加するのは、どうやら女性の方が多いらしい。
彼女らの存在は、かつては例の貴公子に関係するものだと考えられていたが、どうやら二条の方こそが美しい若い姫君に興味をお持ちなのではないだろうか?
二条の方が重用した更衣の一人は、
「なんと愚かしい流言なのでしょう」 と云いつつも、次のように続けた。
「二条さまが多くの女性からの信頼を集めておられるのは事実です。あの御方は、周囲で起きたあらゆる出来事ついて一切を口外いたしません。これこそが当世の女性たちに欠けていて、二条さまがお持ちの称賛すべき品位なのです」
また、紀氏の娘である和琴の方も同じ意見だった。
彼女は、父親の雅楽頭有常に似て、おっとりとした性格ながらも、優れた歌人として心の微妙な移ろいを知ることに長け、多くはない口数にも関わらず、人びとはいつも歓心させられるのだった。
和琴の方が推うに、
二条の方のような女性は、唐の国ではめったに有り得ないながらも、時おり詩文のなかでは姿を見せ、高い身分から生じる余裕と、特別な教養とが混じり合った匂いやかな方なのだ。
かつて孔子は、あるべき人の心を後世に伝えるため、『詩経』三百五篇を取捨選択したといわれるが、だとすれば、二条の方のような女性は、まさに世に潜れた"才子"であり、わたし達はその多くを学ぶべきなのだ、と。
彼女たちは、じぶん達の全く意図しないところで、二条の方との恋に敗れた貴族たちの負け惜しみの一部を、その熱心な心づかいによって証明することになっていたのである。