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17-3.慎まやかな幸福

 在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は、友人たちの話を聴きながら、

 心を浮き立たせたり、胸をときめかせようとしたりするのを(ため)してみた。


 これは夜中に、悪鬼(あっき)幽霊(ゆうれい)のことを考えて、自らを寝つけなくさせてしまうのと同じもので、時には上手く行く方法だった。


 陽気さに少し身が入ってくると、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は更に無理をして、戯談(じょうだん)皮肉(ひにく)を頻繁に投げ入れるように努めた。


 今回はかなり成功を収めたようで、自分も周囲の人びとも、笑いの中に陶酔(とうすい)する感じがあった。


 (ほたる)(かた)もまた、熱狂(ねっきょう)に身を置くことで、自分の暗い感情を()(はら)おうとした。


 彼女の胸を焼く焦燥感(しょうそうかん)と、多少似た感じの熱が生まれつつある気がして、その正体が(つか)めそうだった。


 憂鬱(ゆううつ)から抜け出したい――

 そうした昔から折につけて(いだ)いてきた想いは、さまざまな姿形を取って、(ほたる)(かた)の心に希望と絶望とを与えてきた。


 桂川(かつらがわ)の暗い水底(みなそこ)を前に、恋の夢物語に(ふけ)った末、身体を絶望に(ささ)げようと決めていたあの晩、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)から示された希望に追いすがり、流されるままに周囲の変化を(なが)めてきた。


 しかし、その希望は、当初に比べれば魅惑(みわく)(とぼ)しく、どんな妄想や理想にも(おお)われていない代わりに、より現実的で、明確な人間性を含み、また精神の試練(しれん)を経ることで幻想から解き放れたかたちで、新たな憂鬱(ゆううつ)となり、(ほたる)(かた)を苦しめた。


 高揚(こうよう)する心が身体を引き寄せようとする時の衝動(しょうどう)を、(ほたる)(かた)は待ち構えていたのに、与えられることはなかった。


 ――恋は言い訳に過ぎなかったんだ。


 (ほたる)(かた)は、この時はっきり理解した。


 今回の成婚(せいこん)の過程を(おも)うと、単純に希望をかなえることで幸福(こうふく)が生じるのは、実際には(まれ)なのだと気が付いた。


 ある高名な僧侶によれば、かりそめの現世では本来として幸福(こうふく)は成し得ない、というのだが、(ほたる)(かた)はその言葉に疑念を持った。


 どのようなものであれ、幸福(こうふく)を求め、獲得することは、その過程において敬意を(はら)われて然るべき葛藤(かっとう)なり苦悩(くのう)があり、紀氏(きのし)成婚(せいこん)は、彼らの努力によって達成された誠実な答えの一つなのだ。


 答えを探そうともしなかった人間に、あれこれ批評される筋合(すじあ)いなどない。


 多くの人は、(かたく)なに分かりきったふりをし、言い訳を次々と(かさ)ね、

 今の自分にとっての世界を、勝手に好きにも嫌いにもなったりするのをやり続ける。


 自分でも知らないうちに(つか)れを溜め込み、もうこれ以上長くは心をあざむくことはできないと、ある日、無力感に見舞(みま)われるのだ。


 (ほたる)(かた)は、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)と話しをすることに、(おだ)やかな待ち遠しさを感じていると気が付いた。


 そのことを自覚したのは、眠れなかった朝、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)に会いたいと心の奥で願っていた感じがしたからだった。


 恋の衝動(しょうどう)に見られる狂おしい気持ちや、肌がぞくぞくするような感覚はなく、ただ日向(ひなた)の暖かさを求める静かな(おも)いだった。


 まがい物の情熱の先に、彼女の幸福(こうふく)があるというのなら、それを知りたいと思った。


 「あら、みなさん、外を見てください」 と二条(にじょう)(かた)は言った。


 彼女が手にする扇子(おうぎ)の先には、夜の闇に舞う白雪(しらゆき)があった。


 柳絮(りゅうじょ)のような軽やかさのある初雪(はつゆき)は、底冷(そこび)えする寒さの中に、冬の興趣を()え、今日という日を特別なものとした。


  小閣(しょうかく)(しとね)を重ねて寒さを(おそ)れず

  遺愛寺(いあいじ)の鐘、枕を(そばだ)てて聴き

  香炉峰(こうろほう)の雪は(すだれ)(かか)げて()

  故郷、何ぞ独り長安(ちょうあん)に在るのみならんや


 和琴(わごん)(かた)は、『白氏文集(はくしぶんしゅう)』の一節をつぶやきながら、表廊下(おもてろうか)から姿を現した。


 「皆さま、両親の準備が整ったようです。どうか祝福(しゅくふく)して差し上げてください」


 「当たり前ですよ!」 と源左大臣(みなもとのさだいじん)は答えた。

 「しかし、有常殿(ありつねどの)の様子が気がかりだ。妙な失敗をしなければ良いものだが」


 源左大臣(みなもとのさだいじん)が席を立つと、ほかの客人たちもこれに続いた。


 隣室を(のぞ)くと、多くの贈物(おくりもの)祝意(しゅくい)が届けられていた。


 「(ほたる)姫君(ひめぎみ)、」 と和琴(わごん)(かた)は声をかけた。

 「貴女(あなた)のおかげで、素晴らしい式になりそうです。これらの贈物(おくりもの)は、貴女(あなた)の評判を聞きつけた(みやこ)の人びとが寄越(よこ)したものです。(しつら)えを豪華(ごうか)なものに変えることができました。心から感謝します」


 (ほたる)(かた)は、笑顔でこれに応じ、改めて祝意(しゅくい)を伝えた。


 けれども、心の中では、自分のせいでこの(つつし)まやかな幸福に、一点の(よご)れを残したと感じ、深い苦しみに(さいな)まれた。

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