17-2.時は過ぎ行く
蛍の方を乗せる牛車は、ゆっくりした速度で、春日野に向けて歩みを進めていた。
秋の名残りが、最後の湿やかな雨を降らせ、牛車の天井と側を伝い滴りながら、道のぬかるみに白い粒を跳ね返した。
道行く者は、長柄傘を差したり、被笠を目深に首筋を守ったりして、先を急いでいる。
晴天が長く続いた後の、衣服の奥に沁み込むような寒さだった。
蛍の方は、冷える足先を揉み合わせながら、身体を包み込む衣服の温もりに、僅かな心地良さを感じた。
今日の昼には、春日野の森を抜けて、旧都の北辺に到着する予定だ。
帝への手紙を書き上げてしまいたいという激しい欲求に取りつかれていたものの、安易な返事は止めておこうと心に決めていた。
自分が親切を受けているのと同じだけ、相手にも気持ちを費す努力をしたかったのだ。
旅程の休息中にも、蛍の方が考えにとらわれているのを見て、在原中将は可哀想になった。
在原中将は、話し合いのなかで一先の和解をしたその日以来、彼女への素直な愛情は実際のところ熱っぽくなり、態度にも表れていた。
それまで、どこか理性的だった在原中将は、彼女に対する心の働きが、自分が識っているはずの恋とは違うような、特別な愛着を示していることに気が付いた。
その場の雰囲気に任せた勢いや、世間への反抗といった他人に由来しない恋の理由を、在原中将は初めて知り、それだけに胸が痛んだ。
けれども、情愛の伝え方が曖昧になってしまうのは、心が怠けていたり、他のことに気を取られたりするせいに違いない。
そうした惰性は努力によって克服できるものなのだから、今も身を動かせば乗り越えられるのではないだろうか。
在原中将は、自らの恋の罪を隠すように、優しい言葉を何度も饒舌にささやいた。
『万葉集』の時代には見られなかったような、奇妙で複雑な関係がそこにはあった。
蛍の方にとって、奈良の地は、どこか懐かしくも儚い、かつての栄華が眠る場所、という印象があった。
母親からよく聞かされた平城帝の物語と、思い違いではあったが父親の面影とが重なるような接点の地である。
これまで足を運んだことは一度もないものの、自分の知る過去を確かめることへの期待と、開けてはならない秘密に出くわしてしまうのではないかという恐怖との間で、気持ちが揺れ動いた。
蛍の方は、分かりやすい感傷には、浸り切ることができなかった。
平城京は、周囲に名山を望む緑の盆地に、唐風の青丹色の建築が映える華やかな都だった。
当代の都と比べるとやや小さいものの、そのぶん、市制と区画には手入れが行き届いており、左京を流れる佐保川沿いには、柳木が植えられ、風になびく姿が人びとの心を慰めた。
薬師寺、大安寺、唐招提寺、元興寺、興福寺、東大寺などの名刹も多い。
牛車は山道を抜け、秋篠寺を過ぎると、麓下にかつての都の姿を広げた。
――そうだ、時は過ぎてしまったんだ、と蛍の方は憶った。
崩れかけた城壁に、風雨にさらされ色の褪せた大極殿、貴族の邸宅があったはずの場所はすでに田畑となり、やせ細った農夫が歩いている。
全ては終わった後のことだった。
真っ直ぐな道を東に向かって進みながら、蛍の方は景色をただ視界に入れ続けた。
外京の六坊大路、興福寺の近くに、彼女たちを出迎える人びとの影が見えた。
在原中将は、牛車から急いで下りると、紀雅楽頭と嬉しそうな挨拶を交わした。
蛍の方が後に続くと、春日野の姉君が声をかけた。
「あまり容色が良くありませんね、わかめを生姜湯で温めたものがあります。お上がりになってください」
客間に入ると、先に出発した二条の方と三芳野の姫君が、火桶を囲んで話しをしていた。
「お疲れさま、くたびれたでしょう」 と二条の方は云った。
汁物の入った食器を運んできた伊勢の更衣と一緒に、蛍の方もその中に座った。
三芳野の姫君は、申し訳なさそうに口を開いた。
「お手紙の件は、どうなりましたか? やはりお断りするべきではなかったかと、気が気ではなくて」
「あら、何が不満なの?」 と二条の方は云った。
「女官の人事には、いろいろと手を周してありますから、なんでも言ってちょうだい」
「いえ、不満というよりも、思い上がりではないかと怖ろしくなっているのです。わたしのような田舎者が仕事をうまくこなせるのか、ご迷惑をおかけしないかと」
「誰しも最初は初めてのことよ、気にすることではないわ。それに都に居なくてもできる仕事はあります。文章の清書や整理、物語の編纂も生き方の一つです」
「そのようだと良いのですが…… どうでしょうか、蛍の姫君」
蛍の方は、正直に告白をした。
責められる覚悟であったが、全員の反応は優しかった。
「納得の行くまで考えられると良いでしょう」 と伊勢の更衣は云った。
「お困り事があれば、わたしにもご相談下さい」
蛍の方の憂鬱は、少し晴れたような気がした。
在原中将は、表廊下で会話に耳を傾けていたが、突然、肩を叩かれた。
「業平殿、何をしておられる。そんなに驚かれなくても!」
源左大臣は、大声で笑った。
後に続く陸奥の方は、悪戯っぽい微笑を浮かべて挨拶とした。
西京の女君は、在原中将の心中を察して、少しの同情に、批判を交えた視線を向けた。
在原中将は、歎息をつくと、部屋の中に入った。




