17-1.手紙さまざま
昼も夜も、蛍の方にとっては、苦悩の時間が続くばかりだった。
彼女の頭と心を領めるのは、一つの強迫感で、
帝に対して、どのような文章を綴るべきなのか、見えない答えを探ることを、永遠に繰り返した。
――わたしは一体何がしたいんだろうか。
次々と変化する周囲の状況に、蛍の方は自らの本心を見失った。
答えの辺りを、ぐるぐる歩き回されるだけで、目的に到達することができず、言い様のない願望と、際限のない絶望に身をさらした。
手紙によって、在原中将からの申し出を、ほとんど謝絶しかけた過去のある蛍の方だった。
状況を一変させる最初の機会を、一度はその筆と墨で破ろうとしたのだ。
心の奥に秘められた想いは、今さら筆を執ることを通じて見出されるのだろうか。
人びとの面会と手紙のやり取りを少し間遠にして、
その代わりに毎日、自分の分からない感情を反故の上に書きつけた。
折に触れて、文章がとても雄弁だったり、湿っぽいものだったりした。
けれども、それらは手先の表現に過ぎなくて、内容の伴わない虚しさがあった。
夜も更ける頃になると、見ず知らずの男性から何通も手紙が届けられた。
記された文意は、くっきり明快で、よく考えられた実直な軽薄さがあり、
蛍の方は、ひそかに励まされるとともに悲しくさせられた。
一部の手紙は、理路整然としていて、機知も織り込まれ、遊び心を感じさせることもあった。
ところが、何度読み返しても、伝わって来るのは、的確な知性と、巧みな言い回しと、作られた情熱で、女性の虚栄心を満たすには、十分な力があっても、全く心が見えて来なかった。
――わたしのことが"とっても"好きなんだ、という意味だけが知られる。
これでは参考にならない。
蛍の方は、届いた手紙を暗記するほど、何度も読み返すうちに、
内容の奥まで理解して、書き物こそが人の心の総体を伝えるものなのだと気がついた。
容姿も態度も、紙の裏に隠れてしまえば、裸の感情と理性とだけが提示される。
男性は仕事で身に着けた手際のよさと、漢籍由来の修辞の技巧によって、公けに心を隠すのには長けている。
けれども、女性は自分を語るためにしか文章を書かないので、言葉の一つひとつに気づかないうちに情感を込めてしまう。
表現でごまかすことを知らず、無意識の行間にじぶんの心をさらしてしまう。
今の蛍の方には、伝えるべき本心がはっきりとは掴めておらず、それだけに自信がなく、相手の気持ちを想像して、勝手に恐れてしまうのだった。
それはある時の在原中将の笑顔に感じた不安と、どこか似ていた。
誰にも分からない心の裡を知ろうとすること自体が、もしかしたら途方もない行為なのではないか。
終わらない葛藤と、重なり合ったその原因を解きほぐすことなど、誰にも出来ないのではないか。
蛍の方は、白紙となった課題に向き合うと、筆を握ったままでいた。
夜の寒さが身に沁みて、草に結ぶ朝露が下霜へと変わる時候となった。
蛍の方は、春日野から結婚式の正式な招待状を受け取っていた。
文章と筆使いは、歓びと情感にあふれ、理性との間で、最も美しい均衡を持っている。
これまでに手にした相当数の手紙の中で、いちばん簡潔で、素晴らしかった。
恋の駆引きや、歪んだ愛への渇望からは、決して生まれることのない、色彩豊かな優雅さと、変化の多様さがあった。
この才能は、感情への素直な信頼から送り込まれ、教養がその裏付けとなっていた。
文章の行間から現れる誠意を身に着けようと、蛍の方は奮闘した。
親しみがあって、感じが良く、それでいて礼節と洗練を失わない手紙を書かなければならない。
しかし、自分がそれを用意できないのは、どういうわけだろうか。
――かつての自分は、在原中将のために、あれほど熱い本物の言葉をたくさん見つけたはずなのに。
情熱はすでに冷めつつあるというのだろうか。
手許にある紙が、蒼白い色調を帯びはじめた。
早朝の澄んだ空気が、地平線の先から光を伝え、外の景色に清冽な明るさを取り戻した。
蛍の方は筆を置くと、庭園の先に出た。
旭光の眩しさに、目を細めた。
風にさらさら音を立てる竹の葉が、寒々しく、
水鳥の泳ぐ池の面には、薄氷が張り始めていた。
冬の訪れを、朝の人気のない寂しさとともに理解した。
「早いお目覚めですね」
在原中将の声がした。
男は、蛍の方の顔をのぞき込み続けた。
「お目覚めというよりも、寝つけませんでしたか?」
二人は並んで庭園の景色を眺めた。
「実はわたしもなんですよ」 と在原中将は云った。
「手紙を受け取ってからというもの、友人とのさまざまな思い出がよみがりました。有常どのは、ようやく平穏と幸福を取り戻すことができた訳です。わたしは何と言えば良いのか、まだ分かりません」
蛍の方は、在原中将に何か云おうとしたけれど、言葉が出なかった。




