16-2.変化の代償
ほんの少しの何でもないような言葉ですら、和琴の方を怯えさせ、緊張させるように見えた。
春日野の妹君に話しかけられている間にも、何かほかのことが気になって、周囲の人びとの振舞いに敏感になり、落ち着かない様子だった。
相手のほうは、すっかり実姉の結婚話にのぼせ上がっているらしく、話に夢中になり、相手の気持ちに思いが及ばないようだ。
――妹君は、自分も紀氏の養女として、その家族の一員になる予定があることを知らないんだろうか、と和琴の方は思った。
いくらのんびりした彼女の新たな両親であったとしても、話すのを忘れていることはないだろう。
あえてとぼけて見せているのか、それとも――
そう考えるうちに、声をかけて来たのは、父親である紀雅楽頭だった。
家財整理ために春日野の姉君が、欠席する今日を狙っていたのだろうか。
柔らかな表情の中に、様々な感情の変化があって、いよいよこの時が訪れたのだと思った。
相手からきっかけを作ったのは、少々不満だったが、和琴の方はその場を辞した。
春日野の妹君が、あっさり引き下がったのは意外だった。
紀雅楽頭に明るい声で祝意を伝えたり、一家の幸福を褒め讃えたりするものだ、と予想していた。
気のせいかも知れないけれど、三人はどこか落ちつかずに別れた。
部屋の隅から視線を向ける先には、彼らの姿を眺める蛍の方がいた。
どう切り出すべきか迷う父親に、苛立ちを隠せない娘、それによって父親は心の平静を失い、より話し合いが遠のくような、じれったいやり取りを繰り返していた。
自分が仲裁して間を取り持つべきなのか、と蛍の方は考えた。
それはでしゃばり過ぎた行為であり、ずいぶんと尊大な、そして何よりも面倒なことだ。
疲れ切った蛍の方にとって、他人の世界など関わり合うべきには思えなかった。
在原中将の愛に触れ、甘味を吸いながら、途方もない安息の中に埋もれていたい。
蛍の方は、こうした願望に気が付くたびに、矜持に刃物で刺された想いになり、血の止まらない傷を負ったまま、自分の内へ帰って行った。
利害によらず自分の意志で恋に身を任せた女性の通例に従わず、しばらく続くはずの耽溺と執着の期間すら、蛍の方は夢中になれなかった。
その期間は長く続かないし、すぐに倦んで自分に嫌気が差してくる。
蛍の方は、自らの心の不思議を疑った。
たった一日、一刻であっても、恋人への集中が続いた例しがない。
いつも世評のざわめきが、彼女の中を風のように吹き抜け、痛む心に忘れがたい感触を残す。
色好みでふしだら姫君、出世のために本心を隠し、次々と男に取り入る姫君、藤原摂家への謀反を企む傾国の姫君――
これらの悪評が、蛍の方の感情を覚まし、冷淡にさせた。
自らが変わることによって、世界はより良く映るものだと信じてきた蛍の方にとって、あまりにも突然で、残酷な裏切りだった。
世間は彼女を認めるどころか、徹底的に攻撃し、その努力を悪意を以て解釈した。
在原中将からの施しだけが、蛍の方に対する報酬であり、残された果実だった。
蛍の方は、この味わいをすがり求めた。
理性がその夢を覚まそうとするほどに、かたく目をつぶり、深い安らぎへと落ちた。
この夢の世界の王女さまは、美貌の貴公子を恋人にしたのではなく、生活を守るための私的な近衛士官にしたのである。
今の蛍の方に、何も嘆くことなどない。
在原中将に全身全霊を捧げる覚悟のある女性たちだって、これほどの対価を貰えることはないかも知れない。
蛍の方にある感情は、怖れだけだった。
ある日、いきなりやって来る誰かに出会うことが怖かった。
それは明日なのか、明後日なのか、男性なのか、女性なのか、貴族なのか、僧侶なのか、平民なのか――
何も分からなかったけれど、その人は、二人の平穏を破戒する使命を帯びて、突然やって来る。
あるいは、それが女性ならば、在原中将の目にかなうように生まれついていて、好かれるのに理由など必要とせず、
在原中将をひたすら「彼女しかいない!」 と思わせてしまうような魅了にあふれているのだ。
蛍の方は、かつて自分の知らない過去に嫉妬したのと同じ様に、今は将来起こるはずの出来事に早くも恐怖していた。
それはまさに、世間の女性たちがみんな、蛍の方をやっかみ始めたのと同じ頃なのだ。
「蛍の姫君、」 と控え目に呼ぶ声がした。
蛍の方が、その声に驚き、怯えると、
三芳野の姫君は、自信なさげに続けた。
「わたし達が出幕ではないのかも知れませんが、紀氏の親子と話をしませんか? 何だか見ていられなくて」
紀雅楽頭が何か話題を口にすると、和琴の方が一言だけ返事をし、それを数回やり取りすると、また沈黙するのを反復していた。
ある人物は、蛍の方のことを在原中将の愛人なのだといった。
また別の者は、在原中将の気紛れにもて遊ばれる哀れな姫君に過ぎないのだといった。
彼らは根も葉もない噂話を広げ、面白がっているだけで、それ以上のことはないのだ。
ところが、紀雅楽頭は娘を心配しながら、どう言葉をかければ良いのか分からない。
娘は依怙地になって、どんな話も切り上げようとする。
彼らの悩みは、真剣なものではないのか?
彼らは、蛍の方の変化を認めてくれる大切な友人ではないのか?
生暖かい暗闇に沈む彼女の心に、わずかに道義の光が差したような気がした。
「行っても良いでしょうか?」 と蛍の方は、在原中将に訊ねた。
美貌の貴公子は、これに笑顔で応じた。
蛍の方は、名残惜しそうに立ち上がると、友人たちに向かって歩みを進めた。
三芳野の姫君は、覚悟を決めるように、彼女の手を強く、急いで引いた。




