16-1.恋の病熱
この年の初冬は、蛍の方の思いなど関係なしに、世間では新たな社交界の花として彼女の名が、賛否を交えるかたちで、急速に広まりつつあった。
在原中将や二条の方と格別に親しくすることの嫉妬と羨望、藤原摂家への挑戦とも取れる態度に対する批判と隠れた賞賛――
これらが一部の真実と、無数の噂説による尾ひれをつけて、人びとの話題に上った。
世間はいくら話をしても足りないらしく、大量に書き送られる手紙には、ぜひ夕食に来てほしいとか、夜会に顔を出すだけでも参加してほしいとか、軽薄な調子で書き加えてあった。
初めの方は、これらの招待を償いと受け取っていたが、
そのうち、愛のささやきや、密会の申し出などには、耐えられなくなって行った。
世間で自分が認められているというよりも、その周りを取りまく危険な雰囲気を漂わせる物語に、人びとの感心があるのだと知り、恐ろしくなった。
思えば、かつてない早さで事態が変わりつつあった。
長岡での歳月は、ここ半年近くで過ぎ去った出来事に、果たして及ぶだろうか。
ほとんど休みなく起こる激しい感情の移り代わりに、蛍の方の心は、確実に疲弊した。
休みの日などは、何もせずに空を見上げたり、気が付くと眠っていたりするうちに、時間が過ぎて行った。
蛍の方にとって必要なのは、安らぎと休息であり、
恋い焦がれる眼差しや、情熱的な言葉などではなかった。
何か変わって見たは良いものの、解決しない課題が山積みで、何から手をつけるべきなのか、これから自分は何をすべきなのか、それすら分からない。
在原中将の存在、近くから包み込んでくれる愛情、そこにいることで密かに撫でてくれているような感覚――
蛍の方は、自分がこれらを本当に必要としているのだと理解せざるを得なかった。
人形や仏像が本物になるため、親しみと信頼が必要であるように、蛍の方にも、そうしたものが大切だった。
空っぽな自分を満たしてくれる何かが欲しくて、在原中将の好意に甘えた。
在原中将は、今までと比べものにならないほどの情愛を傾け、蛍の方のために時間を割いた。
蛍の方は、恋人の腕の中で、希望も悩みも忘れ、だらしないほどに何度も心をせがんだ。
――在原中将は、どんな人物にも慈悲を与える役目を担うように生まれついている、と蛍の方は思った。
崇拝され、追いかけられ、美しさと優雅さと愛らしさによって、女性たちをとろかし、自然が授けた使命を相応しく全うしていた。
在原中将は、まさに神話の世界の住人のように、気難しく、尊大で、自分勝手で、要求が高いにも関わらず、誰よりも優しく、親切で、お節介な、傷つきやすい存在だった。
在原中将は、どんどん素直になっていく蛍の方の姿に惹かれて行った。
他人に対する感情や、相手のことを選り好みする態度を、蛍の方は平然と示し、誰がどう言おうと構わないというふうな、かえって男性の矜持を逆なでし、その支配欲を燃え立たせるような無意識の手管に震えた。
もはや彼女の隣には、必ず在原中将がいて、お互いの求める逸楽に耽っていた。
彼らは心から悦びを感じながら、夕食会の間中も、ずっと二人きりで、お喋りしたり、話を聞いたりした。
その姿を見て、和琴の方は、友人の様子がおかしくなっていることに気が付いた。
蛍の方の憂愁にとらわれた瞳子の奥に宿る奇妙な色気に見つめられると、身が熱くなり、危険な香りに酔わされるのを感じた。
周囲の人間を自分のものとしながら、床の上に散らばる小物類と同じくらいにしか思わないような、傲慢で退屈そうな目付きだった。
蛍の方の心理の異常には、自らが生じさせた不和が、その一端となっていると分かっていた。
けれども、父親への反抗は、すでに凝り固まった意地になり、相手の内面の吐露に触れたり、冷静なやり取りをしたりすることが出来なかった。
本来なら、こちらからも少しずつ自分の考えていること、相手の知らない側面を打ち明けながら、関係性を立て直さなければならないのに、一人では成し遂げられなかった。
蛍の姫君への相談こそ、和琴の方に残された最後の選択肢だったというのに、自分のせいでその道は閉ざされたのだと知った。
和琴の方は、蛍の姫君と一緒にいると、ほかの人といるよりも自由で、素直で、肩の荷が下りたような気がして、どこか頼りにしていた。
この心の置けない感じは、女性同士の友人関係においては貴重なもので、和琴の方にとっては初めてのことだった。
――蛍の姫君を取り戻さなければ、と和琴の方は思った。
蛍の方にとっては大した問題ではないのかも知れないけれども、自分からすれば相当なものだった。
和琴の方は、問題の氷解を待つのではなく、自ら行動すべきだと決意した。
半端な気遣いは、蛍の方にとっては無駄で、煩わしいものとして見なされているらしい。
言葉は大人しく聞き入れるし、何も感じないわけではないものの、やがて飽きあきした気持ちが嫌悪感を生じさせるようだ。
和琴の方は、三芳野の姫君と話し合って、友達の確かな放心を求めるために思考をめぐらせた。
三芳野の姫君は、自分なりの意見として言った。
「結局のところ、蛍の姫君に安心を与えることが大切なのだと思います。都での評判、宮仕えの勧誘、在原中将との関係、有常さまの成婚――これらが積み重なって、蛍の姫君を苦しめています。解決できない問題がほとんどなのかも知れませんが、少しでも負担を軽くして、心に余裕を作ってあげたいものです。わたしも覚悟を決めて、ちゃんと話をしないと……」
和琴の方にも答えは見えていた。
しかし、それが認められず、避けて通りたいとの思いが強く、時間を引き延ばしていた。
――わたしは何を怖れているんだろうか、と和琴の方は考えた。
父親への恨み、政界への不満、冷淡になって行った母親の態度、どれも違うような気がする。
つまりは、過去の自分のつらい思い出、なのだろうか。
和琴の方は、傷あとに触れられるのを怖れて、
父親が過去を話題にしないように入念に気を払い、知識を頭いっぱいに詰め込むことで、精神を強くしようと努力してきた。
それは誤魔化しに過ぎなかったのだろう。
――彼を知り己を知れば百戦殆からず、とは孫子は上手く曰ったものだ。これまでわたしは、"彼"の過去を知ろうともせず、"己"の心も分かろうともしなかった。問題に挑むだけの準備が何一つできていなかった。いよいよ"彼"も"己"も知るときが来たのだ、と和琴の方は思った。
和琴の方は、口を開いた。
「三芳野の姫君、わたしも覚悟を決めて父親と話をしようと思います。父親の想いを確かめて、必ず良い結果をもたらします」
和琴の方は、そう言って場所を離れた。
あとに残された三芳野の姫君は、声をかけようとしてかけられず、ひどく後悔した。
――わたしの余計な言葉のせいで、和琴の姫君に苦しい決断をさせてしまったのではないか。
決意を語る和琴の方の口唇が、わずかに震えていたことに気が付きながら、彼女は何も言うことが出来なかった。




