15-5.一つの答え
衣装を肌の色に合わせる間にも、蛍の方は葛藤した。
――在原中将の口から初めて過去の話を耳にした。わたしの知らない秘密を何か隠している。ついに問い詰める機会が訪れたんだ。
けれども、一方で二人の関係が壊れてしまうのが恐ろしく、
とくに在原中将の最後の言葉には、不幸を閉じ込めておくための頑丈な箱に鍵をかけておくような印象があった。
――"詮索しない優しさ"とは、本心では誰に向けられたものなんだろうか? 本当にわたしの両親のためなのか、それともわたし自身ためなのか、在原中将のためなのか。
もしも在原中将が多少の冷たさを見せたなら、
おそらく蛍の方は、気持ちが覚め、傷付いたのち、落胆して、しまいには諦めたかも知れない。
ところが、在原中将は逆に、ここ最近でいちばんに優しく、彼女に愛着を示し、心が通じ合っていることを喜んでいるようだった。
この幸福を自らの手で壊してしまうのかも知れない。
そんな恐怖に蛍の方は震えた。
たとえ過去の問題が解決しなかったとしても、
今を生きているわたし達には、何も問題はないのではないか。
過去や記憶は忘れることも、覚えておくのと同じくらい重要なのではないか。
彼女の弱い心はささやいた。
歩き始めたばかりの現在や未来を言い訳に、足りない勇気をごまかそうとした。
――かりそめの幸せでも、現実の不幸よりずっとましなのではないか、と。
けれども、時の流れの空白を埋め合わせなければ、いつしかその近くを通りかかった時に、また同じように足を取られてしまうのではないか。
紀雅楽頭にした助言が心に浮かび、蛍の方は思いを改めた。
蛍の方は、自分の過去と成長、その言葉に支えられて、立ち上がる決心をした。
相手を信じて本心をぶつけようと、蛍の方は、ついに口を開いた。
「業平さまにとって、わたしとの交流は、平城帝の政変にまつわる罪滅ぼしなのですか?」
在原中将は、落ち着いた声で答えた。
「一度、ほかの部屋に移りましょう」
二人は表廊下を抜けると、小部屋で几帳を立て、向かい合った。
掛けてある帳からは、源左大臣が好きな煽情的な香りがする。
ややあって、在原中将のほうから切り出した。
「わたしの祖父について、何かお話したいことがあるのでしょうか。しかし、お答えできることは限られていますよ。わたしも面識はありませんから」
「分かりました、大丈夫です」
それから蛍の方は、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「父親はわたしの幼い頃、政争に敗れて家から姿を消しました。母親はそのことをほとんど語ることはありませんでした。しかし、長岡に住まう貴族の多くは、平城帝の政変に期待をかけ、没落した過去があります。在原中将は、わたしの父親について、ご存知なのではありませんか。在原中将が、ご自分の家族に良い印象を抱いていないのは知っています。在原中将が、わたしに近づくのは、過去への復讐なのではありませんか。わたしの大袈裟すぎる想像なのかも知れません。それでも、最近のわたしは想像に苦しめられ、悩んでいます。ぜひ正直な事実をお聞かせ願いたいのです」
「そうですか、」 と在原中将はつぶやいた。
何から話すべきか、何を言うべきなのか、思慮する様子だった。
永遠に続いたような沈黙があって、在原中将は言った。
「もしも想像が本当のことだったとして、貴女はどうなさるおつもりですか」
「それは、」 と蛍の方は一瞬、返事に迷いながら、気持ちのままを口にした。
「そのような関係ならわたしは望みません」
「なるほど、立派な覚悟です」
在原中将はそう言ってから、しばらくして、笑いを堪えきれなくなったように続けた。
「ですが、それは全く以て事実ではありません。ご安心下さい」
蛍の方は、あっけにとられてしまった。
「蛍の姫君、それは思い過ごしです! 最近、多忙のあまり貴女に寂しい思いをさせてしまったことは、ここで謝罪させて頂きたい。にしても、よくそこまで考えられた。素晴らしい想像力です」
蛍の方は、自分がひどく滑稽な役回りにあるのに気が付いて、顔が熱くなるのを感じた。
「そもそも、一つ宜しいでしょうか、蛍の姫君。わたしの祖父が亡くなったのは、いつの事かご存知ですか。おそらく貴女の父君が、十歳にも満たない頃のはずです。それでも父君は、政変に加担しておられたのでしょうか。余りに早熟すぎませんか。それにわたしは祖父のことは、恨んでいませんよ」
在原中将は、大笑いしながら、非礼を詫びた。
落ち着きを取り戻すと、優しい声で言葉を継いだ。
「蛍の姫君、わたしは貴女をお慕いしております。以前、長岡の地で姿を拝見して以来、ずっと貴女を探しておりました。帝からの願いであろうと、宮仕えになど絶対に行って欲しくありません。どのような過去があろうとも、貴女への想いは同じです。これがわたしの本心なのですから」
そういうと、蛍の方の頬に口付けをした。
この情熱を、彼女は信じた。
「さあ、花橘の衣装を着て、友人たちをお祝いしましょう」
在原中将は、蛍の方を連れて、席を立った。
それから、気になる衣装を何着か購い求めると、
「貴女のいろいろな素敵な姿をみせて頂きたい」 とささやいた。
衣装合わせを終えての帰り途、在原中将は袖の中に何か当たるものがあるのに気が付いた。
それは蛍の方に渡しそびれた瑠璃硝子の髪飾りである。
在原中将は歎息をつくと、いまだ止まない胸の痛みに苦しめられていた。




