15-3.ある女君と最後の恋
九十九髪の女君は、藤原南家の栄光を知る最後の女性だった。
淳仁帝のもとで太保の地位にあった藤原仲麻呂は、彼女の遠くない祖先にあたる。
藤原仲麻呂は、一門の盛衰の体現した人物だった。
過激な政治改革と専横、帝位をも揺るがす権力への執着――
これらが導く結末は、立場を失う恐怖、王朝への叛逆、そして敗死だった。
藤原仲麻呂の最後は、権力にとらわれた人間の悲劇的な末路であったが、藤原南家の台頭を知らしめるには、十分すぎる輝きがあった。
世代を下るほどに、藤原南家の公卿は朝庭での人数と発言力を回復し、かつてに劣らないほどの栄誉に浴した。
平安京遷都に尽力し、一門から右大臣に昇る人物も現れた。
藤原右大臣継縄は、妻が百済出身の氏族だったためか、同じ血縁を母親に持つ桓武の帝から特別の信任を得た。
桓武の帝が、右大臣継縄の邸宅を訪れると、百済楽を演奏させ、楽しんだ。
九十九髪の女君は、しばしばこの異邦の響きを回想し、過去に聴き入っていた。
すでに奏法も途絶えた百済琴や莫目の音の記憶に、二度と戻らない父親との華やかな日々が呼び覚まされた。
彼女の夫が、自らの栄達への願望と引き換えに失くした美しい生活の思い出は、九十九髪の女君を、旧き良き時代に取り残した。
彼女の夫は、藤原他家との対立の中で、平城帝の目指す理想の治世に、形ばかりの賛同を示した。
平城帝の語る民を懐う仁政も、仏教の尊重も、彼の関心にはなく、守旧派の勝利こそが唯一の望みだった。
黒い野心だけが支持する力の源であり、どんな夢も希望も、その前には全て意味のない夢物語に過ぎない。
そして、彼の得た現実は、思想も信念も伴わない虚しい敗北であった。
罪人として連れられて行く夫の姿に、九十九髪の女君は、どんな思いを抱いたのだろうか。
「祖母は政争に敗れた夫の姿について話すことは、一度もありませんでした」 と春日野の姉君は云った。
「祖父はどうやら才知と美貌に満ちた人物であったようです。思い上がりが若い彼の判断を歪めたのでしょう。それについて、わたしたちは何も恨むことはありません」
春日野の姉君の視線は、時により優しく、より遠くの方を見つめ、より蛍の方を向いているように感じられた。
不安と穏やかさの交錯する眼差しには、長年、春日野の姉君の心を苦しめ、何度も同じことを考えては諦めるしかなかった現実への哀惜があった。
蛍の方は、自身の父親を思い出し、小さく頷いた。
ある日、突然、家から姿を消した父親の顔や背丈すらもよく覚えていない。
自分ではどうにもならない過去にとらわれ、生きているとも死んでいるともいえない曖昧な心境で、ぼんやりと住ごす日々――
九十九髪の女君の人生は、蛍の方にとって他人事とは思えない感情を揺さぶるものがあった。
春日野の姉君曰く、祖母は年老いてから、自身の願望をぽつりぽつりと口にするようになったのだという。
あんな夢を見た、こんな過去があったと、物語として控え目に子どもたちに話して聞かせた。
しばらくして息子は、母親は恋をしたいのだと気が付いた。
その恋は情欲などではなく、自分の人知れない葛藤と悲しみを慰め、認めて欲しい、という純粋な祈りのようなものだった。
息子は思い悩んだ末、狩りをする在原中将に行き合わせ、事情を伝えた。
見ず知らずの相手であったにも関わらず、在原中将は熱心に耳を傾け、
――ちょうど借宿を探していたのだ、と告げた。
その晩、二人の男女は、夜が明けるまで話しを続けた。
明け方、そっと霜鬢交じりのかたい髪を撫でると、九十九髪の女君は、何かの許しが与えられたような気がした。
在原中将が立ち去る様子を見送りながら、九十九髪の女君は、嬉しさと悲しさに胸を苦しめられ、茨木や枸橘のとげが刺さるのにすら気が付かなかった。
男性はその様子を目にすると、愛おしさがこみ上げたのだろうか、手のひらを伝う血液に口許を寄せ、ささやいた。
――貴女を愛させて下さい、せめてもの罪滅ぼしとして。
二人の交流は、彼女が死を迎えたその日まで、以後止むことはなかった。
春日野の姉君は云った。
「祖母の晩年は、幸福なものであったと信じています。ほとんどの貴族は死の穢れを恐れて、危篤の人に近づくことはしません。ですが、在原中将は、息の絶える瞬間も、祖母の手を握り続けていました。さらに葬儀の手配を行い、あとに残された私たち姉妹の支援も約束して下さったのです。たとえ罪滅ぼしであろうとも、祖父である平城帝への当てつけであろうとも、私たちの感謝は何一つ変わることはありません」
「在原中将は、それほどに自身の家族を怨んでいるのでしょうか」 と蛍の方は云った。
「怨みで人が優しくなれるとは思えません。在原中将は、間違いないなく女君を愛しておられたのだと思います。それが恋ではなかったとしても、特別な想いで接していたはずです。わたしはそれだけ人としての強さを持っておられた女君について、もっと知りたくなりました」
春日野の姉君は、感謝を伝えると続けた。
「本来なら、在原中将の口からその言葉を聞きたいのですが、どうやら難しそうですね。けれども、未来の奥様からお言葉を頂きました。これで良しと致しましょう」
蛍の方は、その意味に気が付くと、気恥ずかしさを感じた。
それでも、しばらくすると再び憂鬱な思いにとらわれた。
――やっぱり在原中将の本心を問い質さなければ。彼はわたしとの関係の変化を望むんだろうか。
複雑な表情を見せる蛍の方に、春日野の姉君は云った。
「何事も深刻に考えすぎてはいけませんよ、蛍の姫君。どんな事柄も、いつかはどうにかなるものです。それにここだけの話なのですが、在原中将は人が考えるほどに成熟した方ではありません。子どもじみた感性の上に、嫌味な礼節を身に着けただけの人物といって良いでしょう。矜持の皮で出来た外見の中には、臆病な心が隠されているものです。軽薄な言葉に騙されてはいけません。正直な心をぶつけるのです。すでに貴女の心ほうが大人のはずなのですから」
蛍の方は、その言葉を聴くと、在原中将に視線を向けた。
一度、目と目が合ったような気がしたけれども、相手は態度に見せることはなかった。
在原中将の傍では、和琴の方が楽しそうに彼と話をしていた。




