2-1.危険すぎる恋
蛍の方にとって、目の前を歩く高貴な女性は、世界でいちばん魅力的なひとのように思われた。
四十歳手前の二条の方は、とても礼儀正しいかと思えば、どこか子どもっぽいような、出会う人みんなを虜子にしてしまうような愛嬌にあふれていた。
二条の方曰く、昔はじぶんに似付かわしいと思われる男性たちとの恋に明け暮れていたのだった。
八つ下の元夫は、きわめてやんごとなき方であったが、二条の方のそうした魅力に取りつかれた人物の最たる例だった。
身辺の警護だと見え透いた嘘言をついて、まわりにたくさんの女御や下女をおかせ、実際のところ、他の男性の出入りがないか、入念に調べさせていた。
その方は、身体が病弱かっただけに、心は尽きない猜疑心や嫉妬にとらわれてしまうことが多かったらしい。
二条の方にとって、結婚はひどく不幸なものだった。
相手からの過剰な気遣いや、嫉妬に由来する冷たいあしらいや、交友関係の不自由など、思いがけない障害の数々に、驚きのあまり取り乱しながらも、一切不満の声をあげず、ただ耐え忍ぶことを選んだ。
彼女が従順であればあるほどに、清和の帝は言いようのない感情を募らせて、自らの心と身体とをすり減らして行くのだった。
ある晩のこと、帝は突然亡くなられた。
都のずっと西方、水尾山寺で仏道修行に専心しようと決心した矢先のことだった。
灯明の頼りない光の下、蒼白くなった若い夫の顔を眺めていると、
二条の方は涙とともに自身の愛情を知り、そして深い安堵感を得たのに気がついた。
もともとは独立心の強い、賑やかすぎるほど明るい性格の彼女だった。
話をあわせて人を惹きつけるのがとても上手く、機微に富んだ言葉をあちこちにはさむのが、都育ちの高貴な女性にしてはめずらしく、自らを決してかしこまった人間として観せようとはしなかった。
幼い頃から後見人である叔父に大いに甘やかされて育てられ、屋敷の廊下に毎晩のように響く宴会での戯談や、政敵たちに対する辛口な批評を聞かされていては、彼女の才気というのは、自ずと活発なものになって行ったのだろう。
そこに結婚十年間の忍耐で身についた独特の内向性が、昔からの大胆さと入り混じって、言いすぎること、やりすぎることを強く恐れながらも、同時に何ものにも縛られずに居たい、という熱い思い、そして、もう二度とじぶんの心を侵されてなるものかという固い決意を抱くに至った。
鷹狩などよりも和歌や雅楽を愛した夫は、客人をもてなす際には、妻が無口で上品で礼儀正しく、きれいに着飾った人形さながらに振舞うことを求めていた。
それが他の男性たち対する嫉妬と疑念に関係することは、二条の方も理解していたが、客人たちのさまざまな愉快な世評を耳にすると、ただ喜んで話を聞いているだけではいられなかった。
夫の喪が明けたある日のこと、親しくしていた客人のうちの何人かを夕食に招待した。
世間の道理に背いた異例の誘いに、やはり三人が断り、二人がこれに応じたのだった。
そのうちの一人こそが、二条の方の以前の恋人であった"あの方"と呼ばれる貴公子であり、蛍の方に会うことを切望するひとなのだという。
蛍の方は、なんだか"あの方"のことが、すごく怖ろしい人物であるように想われてきた。
帝の寵愛した姫君に、その生前から何のはばかりもなく、"あの方"は和歌や贈物をおくり続け、その姫君の下女まで籠絡して、密談の約束を取り付けるなど、やはり正気の沙汰とは思えないのだった。
これが二条の方が仰る"危険な恋"の一端なのだ。
そして、彼女らは少しずつ、以前から親交があった友人や恋人、あるいは自分たちのことを見くびったりしていた古い知りあいの中からも、好みに合う人間を選びだして、二条の方は、自由に生きつつも清廉な女君として客人を招くことをはじめた。
少々の火遊びを愉しみ、世間からの批評など表向きにしか意に介さない人びとを、素晴らしい友人として呼び集めた。
最初に出入りを許された何人かの男女が親しい仲間となって石礎を築き、
ほかの者を引き寄せては、この家にきらびやかな上代の宮廷ふうの趣きを与えた。
そこでは全ての身分が、二条の方を中心とした指図によって解体され、
神代から続く名家の貴族と、あくまでも地方官の子女とが、別けへだてなく交流する決まりがもうけられていた。
そして、"あの方"は、二条の方の邸宅の離れの方に住み、
彼女の付添いと後見人としての役割を、一応任されていた。
彼はもともと出世になどに興味をみせるそぶりはなく、何事にも拘られない艶気を人びとにふり撒きながら、いつも洒落た衣服を着て、たきこませている香木、生花の香りで、流行と古典的な優美さとを、絶妙に取りたもっているのだ。
二条の方に対しては、恋人というよりも友人扱いで、あれこれ世話を焼く"あの方"が、邸宅での夕食会を取り仕切っていたのだが、彼の浮き名は、間もなく京の都の姫君たちの中でも、公然の秘密として知られるようになった。
彼女らは知り合い同士では、貴公子の軽率で型破りな振るまいを非難しつつも、心の奥底では間違いなく憧れの的となって行った。
彼の手元には、人伝いに紹介の申し込みが殺到したけれど、
それらのほとんどは二条の方によって詳しく査べあげられ、相手方のプライドを傷つけないよう慎重に配慮しつつ、断りを入れることが多かった。
この社交界で、彼が口にした機微に富んだ言葉の数々は、都の女性たちの心に忘れがたい印象を植付け、また和歌の趣向としてそれらが用いられることもあった。
二条の方は、こうした世間の動揺に何よりも満足していた。
絢爛たる自由と、道徳の退廃こそが、彼女の明るい性格をもっとも見事に輝かせ、生きているという実感を与えてくれるのだった。
――世間の規則や常識は、人びとの幸福のためにあるべきだ、というのが、二条の方の意見である。
だから、もし時にわたし達が幸福でなければ、そんな規則は必要ない。
それは彼女の叔父が、長らく栄誉をほしいままにしてきた名家の貴族たちを、手段を選ばず押しのけて、臣下の身でありながら、帝の政治を補佐する摂政の地位についたような態度と、何か関わり合いがあるのかも知れない。
かつて朝廷の政務を取り扱う大内裏の南門の一つが火災に見舞われたとき、かの政治家の胸の内では、すでに多くの政治的な謀略が動きはじめていたように、
二条の方の心は、危機的な状態にあっても平静さを保ち、それらの出来事をじぶんの立場にとって都合良く利用できはしないかと検討をはじめるのだった。
それなのに、目の前にいる憐れな少女はというと、顔色を真っ蒼にして、全身からこんなふうに訴えかけているのだった。
――わたしは、そんなところに似付かわしくはありません。
そんな蛍の姫君を見て、二条の方は、
――やっぱりこの子は、わたしの知るかぎりいちばん可愛いひとだわ、と思った。