15-1.紀有常の相談
秋の深まる頃まで、在原中将の忙しさは変わらなかった。
お酒の匂いと、知らない香木の薫りを肌に染み込ませて、遅くに帰宅し、
翌日を頭痛に悩みながら、憂鬱そうに過ごすことが何度かあった。
衣装合わせの日は、気が付くと訪れていた。
秋の驟雨のせいで、蛍の方は長柄傘を差して友人たちを出迎えると、
ぬかるみに足を取られ、部屋の奥の火桶の前で、震えながら身を温めることになった。
炭火の中が、じんわり赤く光るのを眺めながら、形の崩れていく小さな音に聴き入った。
屋敷は明るく賑やかな声に満たされている。
在原中将は、彼女の身体をいたわって、背中から体温で抱きしめた。
「申し訳ありません、ありがとうございます、業平さま」 とだけ蛍の方は云った。
取って付けたような優しさに、彼女の心は、むしろ寂しく、冷たくなって行った。
表廊下から柱木を叩く音がした。
「少し宜しいでしょうか、蛍の姫君」
紀雅楽頭有常は、遠慮がちに部屋に入ってきた。
在原中将が席を外すと、紀雅楽頭は切り出した。
「蛍の姫君には、恥を覚悟でお頼みしたい事があるのです。わたしと娘とが、話をする機会を作って頂きたい」
唐突なお願いに、蛍の方は言いたい事が理解できなかった。
「それは一体、」 と蛍の方は云った。
「有常さま自らが、和琴の姫君とお話しすれば、済むことなのではありませんか?」
「娘はわたしと口を利いてくれません。再婚を許していないのです」
蛍の方は、紀雅楽頭の複雑な家族関係を何となく聴き知ってはいたものの、いよいよ問題が表面化したのだと察った。
紀雅楽頭には、かつて長年連れ添った妻がいた。
藤原北家を両親とする気位の高い女性で、紀雅楽頭とは政略によって結ばれた。
飛鳥朝以来の伝統しか有さない藤原氏にとって、神代から家門の継ぐ紀氏との婚姻は、権威付けに相応しかった。
紀氏もまた衰退しつつある家勢の回復を目論んでいた。
二人の関係は良好で、ほどなくして娘が生まれた。
鷹揚な紀雅楽頭に、妻は不満を持ちながらも、その性格ゆえに夫婦の対立も起こらなかった。
しかし、応天門の政変が、紀氏の身の振り方を一変させた。
一門の数名が、伴善男と結託した主謀者であると見なされ、流罪となった。
紀雅楽頭は、宮廷での立場を失い、さらに火の粉を被ることを怖れ、
東国への出奔を決意したのだが、それは政局が変わるまでの謹慎に近い意味を持っていた。
幼い娘と妻を残して、紀雅楽頭は各々の罪を得た友人たちと、数年の放浪を強いられた。
残された家族の生活は苦しく、表沙汰にならないよう気を付けながら、土地や財産の多くを売払った。
娘である和琴の方の楽しみといえば、友人たちの縁故を通じて手に入れた、使い古された書籍を読むことだった。
初学者向けの『蒙求』や『千字文』を、"韋編三絶"と言わんばかりに何度も読み返し、それから在原中将から贈られた『文選』や『遊仙窟』に熱中した。
幼い頃、目にした美貌の貴公子の姿を思い浮かべながら、和琴の方は淡い夢を見た。
蛍の方は云った。
「そのようなことは、一度も和琴の姫君から聞いていませんでした」
「そうでしょうね、」 と紀雅楽頭は俯向いた。
「娘にとっては、あまり話したくない過去なのでしょう。わたしは娘の成長を知らないまま歳月を過ごしてしまいました。お互いの本心を話し合った経験がないのです」
紀雅楽頭は、歎息をつくと、悲観的な言葉をいくつもつぶやいた。
「ですが、有常さま、」 と蛍の方はさえぎった。
「だからといって、なぜ再婚に反対するのでしょう。和琴の姫君が怨んでいるとは、とても思えませんが……」
「確かに怨まれているとは、わたしも思っていません。ただ、言い様のないわだかまりを解消できないまま、それを言い当てることができずに、ここまでやって来てしまったのです」
しばらく沈黙して、蛍の方が答えた。
「本心をお話しするしか、やはり方法はないのではありせんか」
「それでも、離婚の経緯については、話したくありません。あの出来事は、未だによく分からないし、憶い出すだけでも辛いのです」
ややあってから、紀雅楽頭は続けた。
「わたしの臆病と優柔さが、この事態を招いていると理解しております。けれども、わたしは自分を信じることができない。何から話すべきなのかすら、分からないのです。わたしは、妻の出家を止める勇気も覚悟もなく、自らを慰めるだけでした。これは運命なのだ、決まりきった道筋なのだと、言い聞かせ、最も大切な時期に娘に寄り添うことをしませんでした。今更、わたしにいろいろ言い訳めいたことをいう権利が、果たしてあるのでしょうか。娘を説得しようなどという感情を持っても良いのでしょうか。わたしには、何も分からないのです」
話をするごとに小さくなって行く紀雅楽頭に、蛍の方は言った。
「わたしは和琴の姫君を尊敬しております。とても聡明な方で、知識もあり、それでいて正直な方です。わたしに足りない全てのものを持ち合わせているのではないか、とすら思っています」
紀雅楽頭は、感謝の言葉を述べた。
「有常さま、わたしは自分を信じられなくても構わないのだと思います。けれども、大切に想う方を信じてみてはいかがでしょうか。足りない勇気も覚悟も、相手に分けてもらえば良いのです。自分が相手の本心を知りたいように、相手もきっと有常さまの本心を知りたいと考えているはずです。自分から切り出してしまえば、相手もきっと応えて下さるでしょう。まして、和琴の姫君は、優しい方なのですから」
「そうですね、」 と紀雅楽頭は云った。
「わたしは自惚れていたのかも知れません。自分がこの問題の全てなのだと、思い込んでいた節があります。ありがとうございます、蛍の姫君」
紀雅楽頭は、いつも通りの柔和な表情に戻った。
彼が退室してから、蛍の方はずいぶん偉そうな物言いをしたのを恥ずかしく思った。
――この話題には、わたしを夢中にさせてしまう何かが含まれていたらしい。
蛍の方にとって、いつの間にか深く考えさせられていた事柄だった。




