14-2.衣装まみれ
六条河原院の庭園は、源左大臣が想いを馳せる塩釜の景色を模しており、都の人々にも素晴らさがよく知られていた。
池に浮かぶ小島の数々などは、船を借りて漕ぎ出だせば、それだけで風情を味わうことができる。
庭を飾る花々は、高額でも渋らず払う主人だと見てとった庭師がよく手入れし、季節ごとに植え替えて、数を増やし、大きく鮮やかに匂い立っていた。
桔梗の紫と緑の絨毯に囲まれた木陰の前で立ちどまり、在原中将は言った。
「ここら辺に寄りかかって話しをしましょう。とても愉快なお話があるんですよ」
興奮の冷めない口ぶりで、最新の噂話を語り出した。
藤原摂政基経の娘――つまり、桜花の方は、水無瀬での祝宴以後、父親の振舞いに怒り狂って、一言も口を利いてやらないそうなのだ。
摂政基経は、日々ご機嫌を伺うような撫で声で、娘にいろいろと話しかけているのだが、
余程のことがなければ、わざとらしく無視をして、どうしても必要があれば、目の前でも黙ったまま書面で返事をするのだという。
摂政基経は、耐えきれず、一度怒りと嫉妬にまかせて説教をしたものの、
娘はその何倍も凄まじい権幕で、罵詈雑言の嵐雨を浴びせた。
騒ぎを聞きつけて、家中の人々が火消しに奮闘し、何とか荒れ狂う女性を父親から引き離した。
桜花の方が去って、ようやく場は落ち着いた。
このとき以来、摂政基経はひどい落胆ぶりで、病いを言い訳に公けに姿を見せない。
都の人々は身分を問わず、この激闘を気の利いた愉快な尾ひれを付けて話してまわっているのだ。
在原中将はすっかり夢中になって、この話題がどうしても頭から離れないらしい。
そのほかにも名前を、何人もの名前を何度も口に出すので、蛍の方は複雑な心境を抱いた。
「それは先ほど聞いた話なのでしょうか」 と蛍の方は質問した。
「もちろん! 仕入れたてですよ」
蛍の方は、苦い気持ちで思った。
――在原中将の到着が遅れたのは、このせいでもあったんだ。
相手はそうと気付かず、明るい調子で言った。
「さて、そろそろ入りましょうか。衣装を決めて行きましょう」
従順に、うわの空で、蛍の方はつぶやいた。
「そうしましょう、とても楽しみです」
しばらくして六条河原院の邸宅は、衣装まみれになった。
冬の時候に合わせ、桔梗、紫苑、女郎花などの色の組み合わせを何度も試し、在原中将が、ああでもない、こうでもないと論評した。
陸奥の方は、衣装選びに熱中して、居る人を捕まえては、相手構わず意見を求めた。
その日は結局、いくつかの候補を決めただけで、
また数日以内に親しい友人を集めて、全員で衣装の被りがないようにすることにした。
その後、たいへん急ぎの用事とのことで、在原中将が家を飛び出すと、
蛍の方は、一人で広い客間に戻り、源左大臣と陸奥の方の話に耳を傾けた。
初めから在原中将が来なかったのと変わらないくらい寂しい印象が、心に満ちあふれ、彼のために開けておいた空白がそのまま残されたような気がした。
在原中将の心が何も見えず、解らず、親しげでありながら、どこか意志の欠けているような頼りなさを感じた。
蛍の方を拒否するわけでも、かわすわけでもないのに、置き去りにされたようだった。
在原中将は、どこかずっと遠くの方で、何か重大なことに気を取られて、慎重になっているのではないだろうか。
この時、蛍の方は自分が恋という感情では言い表せない想いで在原中将を慕っていること――
つまり、泥沼の執着で彼の本心を得ようと躍起になっていることに、はっきり気が付いた。
慰めなどではどうしようにもならない失望感が、彼を追いかけたい、連れ戻したい、もう一度その手に触れられたい、という不気味な欲望に火をつけた。
恋に伴う身体の求め合いのほとんどが、こうした心の病から生じているのだと、初めて理解した蛍の方だった。
けれども、何の意味があるのだろうか。
どれだけ触れられようとも、誰もその心に直接手を伸ばすことなどできない。
ましてや、今日の在原中将の心は、あの忙しない出来事でいっぱいなのだから、こちらとしては、相手がふり向いてくれるのを待つしかない。
あの捉えがたい恋人が、いつも通りの気紛れで、ある日、ある時、恋に落ちたみたいな気分になることを、待ち続けるだけなのだ。
蛍の方は、衣装まみれの部屋に帰ったが、
疲れ果て、足取りは重く、勧められる品々に目を据えて行くばかりだった。
息をするのも億劫な、そんな感じがした。
ふと、次に二人で会う約束を、いつの、どことも決められなかったことに気が付いた。
その日、在原中将は日付の変わる頃になっても帰らなかった。




