14-1.都へ再び
約束の日がやってくるまでの数日間、蛍の方は今までに感じたことのない虚ろな気分を味わった。
たった一人の心を知りたくて、その外には、もはや何も存在しないような感じがした。
その人物が遠くにいるわけでなく、同じ邸宅内の居場所まで分かっているのに、変な気まずさと、相手の多忙が邪魔をして、好きな時に会いに行くことも、すぐ傍で生活することもできなかった。
蛍の方は、待ち遠しさの通例にしたがって、延々と続く時の流れを孤独に過ごしつつ、ひどく簡単なことが絶対に達成できない状況をもどかしく感じた。
数日後、早朝の旅支度は、想定よりもずっと早く終わった。
すでに準備は手慣れたもので、余った時間で、昼食に向けて煮染めた昆布を入れたお結びも作った。
庭園に漂う朝霧を眺めていると、穏やかで心地良く、憂鬱が和らいだ。
在原中将がいるはずのないところで、心では待ち続ける苦しみを、さんざん味わった後だったからなおさらだ。
蛍の方が、柱木にもたれて、うつらうつらしていると、
髪を撫でる温かな手で、出発の合図を告げられた。
鳥羽や伏見の自然は、様変わりしていた。
紅葉の錦が織りなす景色は、物悲しさと同時に彩やかな情緒を作り出している。
在原中将を追い、都に上ってから、ずいぶん時間が経ったのだと知った。
ほんの一瞬のことであったような、数年前のことであったような、不思議な月日の流れを感じた。
「これは立派な歌枕になるだろう」 と在原中将はつぶやいた。
衣装の調整と注文は、左京の市場に近い、六条河原院の邸宅で行うことにした。
在原中将が、都での予定を片付けるまで、
蛍の方はじっくり腰を据えて、源左大臣と話をした。
源左大臣の口調には、軽薄ながらも気遣いが感じられて、久しいぶりに愉快だった。
鐘の音が耳に入るたびに、蛍の方は本来の目的を思い出し、落ち着かなかった。
時どき、戸の隙間から、こっそり顔を覗かせ、入口や庭園の様子をうかがった。
どこにも人影はない。
知らずしらず歎息をついていると、源左大臣が云った。
「待ち遠しいのですか? やはり貴女は恋をしておられるようだ」
蛍の方は、自身の非礼を詫びてから、つい訊ねてしまった。
「わたしは恋をしているのでしょうか」
「そうではないのですか」
気まずい沈黙があってから、
部屋に姿を見せた陸奥の方が意見をしめした。
「蛍の姫君、恋する男性への理想は捨てなければなりませんよ。彼らの行動なんて、分かりやすい簡単な欲望から生じているのですから」
「何を知ったようなことを」 と源左大臣はあざ笑うように言った。
二人は数語にわたって言い合い、
源左大臣が諦めるかたちで、陸奥の方の主張は押し通された。
「宜しいですか、蛍の姫君。相手を手に入れることで束縛され、虜子になる人種は、男性には、ほとんど存在しないと言って良いでしょう。それは女性の理想に過ぎないし、自身の性格から類推して作り出された幻なのです。男性の恋には、冒険と少々の苦痛が必要なのです。狂ったような欲望を募らせておいて、こちらがその気にになると、勝ち取ったと判断して熱が冷めてしまう――彼らの身勝手さをよく承知していないと、わたし達はいつまでも恋に隷属したままになってしまいますよ」
「思ったよりも、ましなことを仰る」 と源左大臣は云った。
「しかし、今はそんな話しをしているわけではないのですよ。貴女を見ていると、男性ばかりが身勝手なのか、よく考え直してみるべきだと思わされますね」
二人の議論は、いつも通り白熱し始めた。
蛍の方は、外の様子を窺いながら、再び鐘の音を聴いた。
日射しが部屋中を満たす頃には、計り知れないほど長い時間、この位置に居坐り続けている気持ちになった。
突然、道の先に砂を踏みしめる微かな足音を聞きつけ、次いで入口の戸板が開くのが耳に入ると、蛍の方の苦悶は消え去って、相手に感謝を捧げたくなり胸が熱くなった。
軽く息を切らしながら、在原中将は言った。
「わたし抜きで、ずいぶん楽しそうですね。遅くなり申し訳ありません」
陸奥の方が、「とんでもありません、在原中将」 と応じた。
「実は危うく帰れなくなるところでした。兄の行平に捕まってしまいましてね、いろいろと尋問されました。相変わらず詰まらない世間体を気になさる方でした」
どうやら世間での噂話では、水無瀬の祝宴での例の和歌は、在原中将によって詠まれたものだ、と理解されているらしい。
そこには兄の行平も参加していたのだと目され、宮廷での立場を気にする様子だった。
蛍の方は、中納言行平への直接の謝罪を願い出たが、それは必要ないと言われた。
「もはや事実は重要ではありません」 と在原中将は云った。
「在原氏に関わり合いのある人物から、そうした和歌が詠まれた以上は、結局同じことです。それに兄は、奈良や長岡に在地する貴族に会いたがりません。なかなか薄情な人物なのです」
「承知しました。よく覚えておきます」
蛍の方は、落ち込んだ様子で答えた。
「それにしても、やはり素晴らしい庭造りですね。流石です、融殿」 と在原中将は笑顔を見せた。
「蛍の姫君、少し庭を歩きましょう。楽しいお話がありますよ」
在原中将は、小さな手を引いて、大丈夫と言い聞かせるような優しい表情を見せた。
手を握る力が、強くなった気がした。




