13-3.最後の切り札
蛍の方は、失礼にならない頃合いを待って、在原中将と話をするため部屋へ出向いた。
奥の離れに蛍の方が入ってくるのを見ると、
一人で手紙を書いていた在原中将は、親愛と歓迎の情をしめした。
その顔が、あまりに優しく、素直な喜びを表しているので、
蛍の方が考えてきた数々の不安は、この対応を前にほとんど煙と消え去ってしまいそうになった。
在原中将の傍らに腰を下ろすと、蛍の方は相手の様子を窺った。
――彼の本心を聞かなければ。
まずは今の自分が置かれている立場や心情について、説明する機会を探った。
当たり障りのない挨拶から、会話の切れ間に、一気に喋り始めようという計画なのだ。
ところが、在原中将は突然、思いも寄らない話を持ち込んできた。
「今度、結婚式を挙げることになったのですが、蛍の姫君、どんな衣装にしましょうか」
ひどく困惑する蛍の方の様子を見ながら、
在原中将は、あえて詳細を伝えないで、反応を楽しんでいるようだった。
しばらくして在原中将は何人かの名前を告げながら、話を始めた。
「以前からあった紀雅楽頭の再婚話なのです。先妻が家を飛び出してから、彼は物事をややこしく考えるすぎるようになっていましたが、この度、めでたく説得に成功したのです。お相手は、春日野の姉君です。和琴の姫君も、お慶び、だと良いのですが……」
在原中将は、含みのある言い方をして、付け加えた。
「それと、この件はまだ内密に願います。余計な騒ぎを起こしたくありませんから」
蛍の方は、慎重に首を縦にふると、在原中将は満足そうな様子だった。
それから、彼の話に魅せられ、素晴らしく思い、耳に入ってくる内容に感激したけれども、自分たちの話をするための重大な機会を逃してしまったと感じ、後悔した。
この祝い事は、自らの人生と確かに響き合うものでありながら、二人の内側から燃え上がった情熱ではない。
蛍の方は、言い様のない寂しさにとらわれて、目の前の貴公子を少し恨めしく思った。
人を誂うような態度を取り続け、しかも思いの丈を言葉で表現してくれたことなど一度もなく、相手をその気にさせることだけに熱心でいる。
それでも、人びとはますます在原中将のことを好きになり、本当に愛着が湧いて、自分にとって必要な男性なのだと信じるようになるのだろうか?
女性なら誰しも、在原中将ならではの謎めいた仕草に、身も心も捧げたいと願うのだろうか?
そうすることで、彼が自分のことを、ずっとこんなふうに可愛がってくれるなら、何も構わないのだろうか?
蛍の方は、隠し立てをせず、貞淑ぶることもなく、彼女に備わったある種の大胆さで、結婚する両者の関係について、一つひとつ訊ねて行った。
在原中将は、時おり答えをはぐらかしながらも、概ね分かりやすい返事をし、
両者が単純な愛情によって結ばれたわけではないことが、何となく理解された。
一家の経済や、世間での立場、お互いの境遇への同情と共感などが、二人を結び付けたのだと分かった。
春日野の妹君を、紀氏の養女と迎え入れる予定があるのも知った。
たまたまその日は、日暮れまで部屋には誰も来なかったので、
二人は差し向かいで同じことを話し合い、言葉でお互いの気持ちを探り合ったが、それらの言葉の持つ意味は、各々の心にとってまるで異なっていた。
灯火が来る時間になって、伊勢の更衣が姿を現した。
夕食の支度が整ったというので、蛍の方が席を離れようとすると、ひどい足の痺れを感じた。
「わたしはこの手紙をしたためてから参ります」 と在原中将は云った。
「近いうちに衣装を決めましょう、蛍の姫君」
蛍の方は、疲れ切った頭で返事をした。
「おそらく朝から都に行くことになるでしょう。時間を空けておくように、またお願いしに参ります」
在原中将の言葉を聴くと、蛍の方はふらふらと部屋を出て行った。
「とても長く話し込んでおられましたね」 と伊勢の更衣は云った。
「気になりますか」
在原中将は、挑発的な眼差しを向けた。
「いえ、そんな。お二人の話合いですから、わたしの出張るようなことはありません」
「そうですか、なかなか寂しいことを仰りますね」 と在原中将は、熱っぽい口吻をもらした。
「わたしは、昼や夜、一人でいる貴女が今頃何をして、何を想っておられるのか、気がかりになることがよくありますよ」
伊勢の更衣は、普段見られないような動揺を見せると、家政を言い訳に急いで退出した。
――生真面目な可愛らしさを持つ方だ、と在原中将は思った。
もうしばらく探りを入れられることもないだろう。
これ以上の切り札はないのだから、一度全員に引き下がって貰わなければならない。
在原中将は、友人の結婚を、自分の本心への追求を逸らすために利用したことに、少し後ろめたさを感じた。




