13-1.後悔と決意
蛍の方は、水無瀬の邸宅を辞して、目の前から人びとの賑わいがなくなると、急に自分の内側と周囲から、身体と心を支え、何とか動かしてきた活力が、全く消え失せたように感じられた。
あまりに疲労し、空気が薄い。
祝宴では、ひどい出来事を除いて、何も起こりはしなかった。
在原中将は、何度も愛嬌ある表情を見せて、
「貴女が誰よりも魅力的な女性だ」 と目配せで告げてくれた。
なのに、蛍の方は、自分が知らないままでいたかった真実を、在原中将から見せつけられた気がした。
それだって、ほとんど何でもない事実に過ぎない。
あるいは、事実だからこそ、彼女の心は重みに耐えられないのだろうか。
蛍の方は、在原中将の本心を知りたいと思った。
この数か月の間、自分も在原中将も、花開いたばかりの恋がもたらす、初々しくも彩やかな棘子のある感情に、一刻すら惜しんで捧げきっていると思い込んでいた。
しかし、実際の在原中将は、もとの日常を取り戻して、遊興や、根回しや、計画を次々とこなしていた。
都ふうの皮肉とお世辞の競争を再開し、相手と交渉し、女性たちに追いかけられて、褒め言葉を嬉々として受け入れ、自分以外の人に愛想という愛想をふり撒いていたのだ。
あまりにも早く、いろいろな事が起こり過ぎた。
もっと時が経っていれば、冷静でいられるはずなのに――
つらい過去の思い出から、世の中や人間の心がどんなものなのかは、それなりに理解していたつもりだった。
もっと後なら、それなりに物分かりの良い自分を装って、行き過ぎた要求を抱いたり、感情にとらわれて憎悪を相手にそのまま向けるようなことはなかっただろう。
自分は美しくもなければ、そもそも人に気に入られ、賞賛を浴び、追従を受けるように生まれついてなどもいない。
在原中将は、数多の女性たちの中から、どうしてか自分を選び、強引な手を使ってでも捜し出そうとしたのだ。
それでも、なお蛍の方は、在原中将の気紛れにありがたく付き従う下女のような存在に過ぎず、素敵な男性の生活ぶりを、舞台の下から見届ける観客であることに変わりはなく、これからもそうあり続けるらしい。
蛍の方は、胸の裡に諦めきれない苦しみを感じていて、
それはまるで黄泉の国へと続くほの暗い洞窟の奥の、執着の機微が隠れ棲むその場所からきているかのようだった。
蛍の方は、自分の考えと感情の全てが間違っているのだと理解しつつも、疑いから目を逸らすことができなかった。
在原中将は、宮仕えに関して、何も言わなかった。
変わらない表情、態度、口調、物腰、そして美貌のまま、蛍の方を褒め称えるばかりだった。
蛍の方は、世間と交わる時に、いつも心情の触れ合いに慎重になりすぎた。
傷付きやすい心ゆえに、接触や摩擦が怖くて、周りから身を引くように生きてきた。
――これはきっと間違いなんだ、と蛍の方は思った。
心が傷つくような出来事が起こるのは、ほとんどの場合が、じぶん理想とのずれが大きい他人の性質を、こちらが勝手に見あやまり、許せないままでいるせいなのだ。
これまではそうと気が付いていても、過敏すぎる自身の反応に怯え、見て見ぬふりをしてきた。
けれども、今度は話をしようと覚悟を決めた。
在原中将を責めるのに十分な理由なんて、きっと存在しないはずだ。
在原中将が、蛍の方を長岡から連れ出し、自ら幸福な日々を与えようと苦心してくれるのは、ほかでもない愛情に由来するのであって、二人の生活をより充実させるためなのだ。
今のこの胸の痛みは、在原中将の心を知ろうとして来なかった自分の罪なのだ。
――確かにわたしはもう在原中将のものに違いない。けれども、在原中将はまだわたしのものではない。
在原中将の広大な領分の総てを掌握し、自身のものとなることはない、ということを理解しつつも、決意した蛍の方だった。
これまで世界の何もかもは、ある程度のところで成り立っているのだと信じ、諦めて、満足すべきところで、いつも物足りなさが残る不満を、自身の殻に閉じこもることで、やり過ごしてきた。
今度こそは絶えず望み、絶えず待っていた理想を、じぶんで手に入れるんだ。
天命に待つためには、自信をもって待ち続けられるだけの人事を尽くさなければならない。
眠れない夜だったが、憂鬱ではなかった。
自分に降りかかった辛い経験や印象に、一つひとつ気持ちの整理をつけて行った。
寝所に就くと、この感情はますます胸一杯にせり上がり、彼女の思考を支配した。
考え残したことなど何もないのに、胸騒ぎは静まらない。
冷たい秋風が御簾を揺らし、華やかな月が斜し出た。
胸の痛みは、まるで熱病にうなされる患者に似ていた。
些細な肌触りにも神経が高ぶって、弱くほのかな刺激に苦痛を感じるみたいな、不穏な予感を思わせた。




