1-2.過去と出会い
蛍の方は、心のざわめきを感じるとともに、自分の内にある、どこか落ち着き払った感情の一部を理解した。
誰よりも恋しい例の面影には、耐えがたい想いが明白に示されているけれども、
一方では、ただ落胆して、もはやどんなに努力しようとも高揚などとは縁のない、定められた運命と性格を打ち破ることは無理なのだと諦めていた。
この哀れな姫君から、はっきりした言葉が発せられたり、再び色褪せた目に光が宿ったりするのを、期待して待ち続けるのは、これきりでお終いにしてしまった方が良いのかも知れない。
彼女の純粋で切実な祈りも、深い夜闇に呑まれて消え入るようで、全ては出口も、結末も、喜びも、勝利もない恋に縛りつけられていた。
『万葉集』の時代から、人びとの心を慰め、愛唱されてきたのは、悲恋の歌ばかりである。
叶わない願い、愛する人との別離、つれない相手への恨みつらみなど、苛立ちと不満を募らせて、身も心も疲れるような思いばかりが伝えられた。
複雑に絡み合った感情は、何か決定的な選択をすることを邪魔していた。
全てを投げ捨て、正解なのかも分からない道を選ぶには、あまりに心は頼りないのだ。
――あの青年にもう一度会いたい。けれども、都までおもむく勇気はない。
足先が、橋の下の深い暗闇から近づいては遠のくのを繰り返しても、やはり何も決められないでいる。
蛍の方にとって、平安京は、黄泉の国よりも恐ろしく、不気味なところだった。
人びとの欲望と怨念が渦まき、少しでも気を許せば、彼らの冷たい手が、同じ運命にあるべき人を地の底まで引きずり込むような、そんな場所なのだ。
蛍の方は、感傷のぬかるみのなかで、生死の狭間を行ったり来たりしながら、
自分の過去に追い立てられて、それでもまだ決められずに、迫りくる足音だけを聴いた。
ありもしない答えをせがまれるような焦燥感に身を焼かれ、胸が締め付けられた。
蝉の音が止むと、後ろから艶やかな女性の声した。
蛍の方は突然、問ねられた。
「いったいどうして貴女は、他の答えを選ぼうとはしないのでしょう?」
驚いて振り返ると、そこには一目見て判かる高貴な女性が立っていた。
「遠くで貴女の姿を見つけてから、もう三度は同じところを行ったり来たりしていたわ」
そういって、容色をうかがうと、
「三度だけじゃないって顔をしてるわね」 とくすくす笑った。
――きっとわたしの顔が真っ赤だったんだ。
蛍の方は、気が付くと、恥ずかしさのあまり、改めて早まった決断をすべきだったと後悔した。
美しい女性は、相手の様子を気にすることなく続けた。
「わたしは藤原高子といいます。人には二条の方と呼ばれております。これでも若いころは、危ない恋もしたのよ」
そういって、悪戯っぽく笑うと、付け加えた。
「そう、貴女と同じように、ね」
二条の方は、また続けた。
「恋をされているのでしょう? 答えなくても良いのです、深刻そうな顔を見れば分かります。さしずめ身分違いの恋、二度とやってくることはない逢瀬――そんなところかしら?」
蛍の方には、この高貴な女性が言っていることの半分も理解できなかったが、
何か口吻にしてはならない言葉を投げかけられている事だけは解った。
「そんなに思いつめるような恋は必要ないでしょう、誰も幸せにしないのですから」
幸せになるための恋――
蛍の方は一度たりともそんなことを考えたことはなかった。
彼女にとって恋とは、人をつらく愚かにしてしまう、どうにもならない不治の病のようなものか、
あるいは、愛する夫を突然の政争で失った彼女の母親のように、ひどく寂しい思いにしてしまうものだった。
かつて平安京を造営した桓武の帝の子どもたちは、皇位をめぐり争った。
兄の平城帝は、青丹良しと評された奈良の都で、愛する女性との華やかな生活を夢見ていた。
先帝の過激な政治改革に疑念を抱き、民草を暖かく照らすような仁徳ある治世を達成ようとした。
少なくとも、蛍の方は母親からそう聞かされていた。
しかし、平城帝は余りに優しすぎる人柄だったようだ。
――藤原内侍は、なぜ自らをそこまで愛そうとするのか?
――都を奈良に戻すことを、なぜそんなにも急ぐのか?
それらの疑問に眼をつぶり、平城帝は自らの運命を絶望に導く方へと決断した。
その優しさによって、彼の子孫、また彼に淡い期待をかけた貴族の多くが、二度と再び立ち上がることができないほどの打撃を受けた。
突然、家から姿を消した蛍の方の父親について、
母親は、ただ「立派な方でした」 としか娘に語らなくなってしまった。
蛍の方は以来、決断できない運命にとらわれているのかも知れない。
何かを決めるのは、他の道を断つことである。
正解など存在しないかも知れないのに、わたし達は時に選択を迫られてしまう。
蛍の方は思った。
――わたし自身もそんな病理に取りつかれて、この命さえも捨ててしまおうかと考えている。これ以上の不幸を得ることに、心は怯えきっているんだ。
「それでも、」 と彼女は思わず口にしていた。
「わたしは諦められません。それにもっと子どもじみた仕方のないような恋なのです」
「ええ、そうね、諦めてはいけないわ。でも、貴女は死ぬか生きるか、それだけしか選ぼうとしないんだもの。それだけでは苦しくなるばかりですよ」
二条の方は、手にしていた扇子をぱたりと閉じると、何かを考えるようにしてあたりを歩きはじめた。
「あなたが本当に"あの方"が探しておられる御女なのでしょうか? 大人しいけれど、妙に意志の強いところがあるのは、聴いていた通りだわ」
「わたしは、」 と憐れな迷子は小さな声で言った。
「誰に探してもらえているのでしょうか?」
「ええ、そうみたいね。だから、貴女は今から私の家へ行かなければならないの。"あの方"のためにね」
二条の方は、きっぱりと断言した。
「わたしの邸宅で開かれる夕食会は、いつでも独創的で、目新しいし、ひじょうに活気があって、それでいて古典的なの。音楽も舞踊もとても上等だし、話のおもしろさったら世界中どこを探したって負けはしないでしょう。貴女ならきっと歓迎されるわ。第一にすごく可愛いんですもの」
蛍の方は、最後の言葉だけは丁重に否定したものの、やっぱり悪い気はしなかった。
それでも、まだ抵抗感があって、そもそもこんなにも急きたてるのは、"あの方"と呼ばれる人の本意なのだろうと考えて、
「どうすれば良いのでしょう?」 と曖昧な返事をすることになった。
すると、二条の方は言った。
「あなた、お名前は?」
「蛍といいます」
「そうなのね、蛍の姫君。嫌ではないというなら参りましょう。あなたもきっとみんなのことを気に入りますよ。とくに"あの方"は、学識にはややかけますが、頭は良いし、たいへんな美貌をお持ちです。そして、何より優しいの、ひどく恨まれないくらいには――あと、わたしよりも身分の高い人は数えるほどしかいないわ。気兼ねなく遊びまわってちょうだい」
二条の方のさっぱりした態度に、彼女はどもりながらも、ついこう応えてしまった。
「わたしも行ってみたいのかも知れません」
「完璧とは言えないけど、悪くない返事だわ」
二条の方は、背伸びをすると云った。
「向こうに牛車を停めてきてあります。今日のような気持ちの良い夜は、本当は歩き回りたいんだけど、みんな危ないからってうるさいの。さあ、蛍の姫君、早くこの橋を渡ってしまいましょう」
蛍の方は、絶望の渡り路から逃れるための方法を、自ら選び取ることにした。