12-3.不安と親しみ
蛍の方にとって、藤原摂政基経といえば、明らかな恐怖と不安を抱かせる人物だった。
養父から盤石な地位を受け継ぎ、敵対する実力者を次々と排除して行く、政治という思想の権化――それが摂政基経に対する印象だった。
帝ですらも摂政基経の意見には逆らえず、彼の決定とは、すなわち国家の方針なのだ。
どれほど恐ろしい人物かと予想していたけれども、いざ目の前にして見ると、優雅さの匂い立つ美男子で、不思議な魅力を感じさせ、飛び抜けて上品な雰囲気を漂わせていた。
「お気をつけ下さい」 と和琴の方は云った。
「柔らかな物腰に、どんな意図が隠されているのか判りませんから」
摂政基経は、きわめて女性への扱いに長けた様子で挨拶をし、
実妹の二条の方の傍らに腰かけると、にこやかな表情を見せた。
「皆さま、私どもにも小野宮さまの出家をお祝いさせて頂きたい。何もお邪魔はいたしません」
そういうと、藤原参議諸葛をはじめとして、数名の男性が庭園に入ってきた。
ほぼ全ての客人が席を向き直り、彼らの姿がよく見えるように近寄った。
蛍の方は成り行きで、在原中将と肩を並べて座ることになった。
緊張と注目に満ちた深い沈黙がおとずれた。
そこへ二条の方は、きわめてゆっくりと言葉を連ね、音で物語するように和歌を詠み上げた。
枕詞からはじまる緩やかな印象に、明るい未来を示す言葉の組み合わせが続いて行ったが、その声は、ときに賑やかで、ときに憂鬱で、ときに神経質に聴こえつつも、人びとの予想を超える独創性があった。
蛍の方は、圧倒された。
アマテラス大神が神弓をつがえて、乱暴者のスサノオノミコトが乗り込んでくるのを待ち構えているような、一人の女性としての強さと覚悟に胸を打たれた。
実際のところ、二条の方はひどく悩んでいて、心に大きな不安を秘めているものと察せられる。
だからこそ、彼女の勇気は美しく、称賛されるべきだった。
蛍の方は、尊敬の眼差しで、二条の方をじっと見つめた。
身動きせず、夜闇に浸したかのような重く黒い髪に、口許を震わせながら、勇ましい女性は真っ直ぐ前を見ながら、声を響かせていた。
目と睫毛が大和絵を思わせるほどにくっきりと目立ち、全身に力と情熱とがみなぎっていた。
そこには何かはっとさせるもの――
薄暗い空に感じる嵐の前触れのような不吉さがあった。
藤原摂政基経は、頭を少し揺らしながら、和歌の世界に入りこむように聴き入った。
そこに在原中将は突然、熱烈な言葉を投げかけた。
口を薄く開くと、そこから終わりのない高らかな称賛の声が広がって行った。
舞台上で、その身を見せつけるような大袈裟な手ぶりを加えつつ、いかにも抑制が効かないといったふうに、優れた評価を人びとに求めた。
隣にいる蛍の方は、在原中将の手先がわずかに震えているのに気が付いた。
紀雅楽頭有常は、純粋に和歌としての出来映えを褒め称え、これを越えるのはひじょうに難しいとの意見を示した。
惟喬親王も悦に入った様子で、和歌にまつわる水無瀬での思い出を話し始めた。
春の桜が盛りの頃――
水無瀬の辺りで、狩りをしようと言って、在原中将が友人たちと押しかけて来たことがあった。
在原中将は、桜の枝を簪子として自らに挿すと、風情を踏まえた素晴らしい和歌を詠み、自分はそれを繰り返し口ずさむばかりで、返歌ができなかった。
紀雅楽頭有常は、桜は散るからこそ素晴らしい、憂き世に何か永久に変わらないものはあるだろうか、と言ったけれども、俗世を離れようと決心した今の自分には、その言葉の真意がよく分かるようになった。
秋の時候に、こうして皆で集まり、歌合をするというのは、実に感慨深いものだ。
花は散り、草木もその青さを失ったけれども、これほどに美しい紅葉の景色を見せてくれるのなら、自分の人生にもまだ残された精彩があるのだろう、と惟喬親王は静かに語った。
熱く胸に沁みる惟喬親王の言葉は、人びとの心を震わせた。
優しい声をしたこの悲劇の男性は、話していることの全てに実際に耐えており、
一度は世界に深く失望しながらも、再び立ち上がろうという意志を感じさせ、少なくももそれが出来るだけの素質があると思わせた。
惟喬親王が話し止めた時、源左大臣は目に涙を溜めていて、ゆっくりと拭った。
摂政基経は、惟喬親王の方へ体を傾け、ひとりの人間として感激しながら云った。
「いやはや、これは涙を禁じえません。小野宮さまは、ここにいる誰よりも人の心というものを理解しておられる」
それから少し考えて、こう付け加えた。
「小野宮さまは、深い思想をお持ちでおられる。何しろ俗世に存在するものは、凡て幻影に過ぎないのですから。この真実をよくご存知だ」
ここで歌合の会に休憩が入り、人びとは二条の方の和歌をめぐって好意的に議論した。
とりわけ伊勢の更衣は熱烈な賛辞を送り、
あの強硬な性格の参議諸葛でさえも屈服させた。
蛍の方は、在原中将に何か話しかけようとしたものの、
先ほど怯えた様子を見せてしまったのを恥ずかしく思ったのだろうか、微笑しただけで逃げるように離れてしまった。
蛍の方は、行き場に迷って、あちこち見まわしていると、一人の男性が声をかけてきた。
「失礼ながら、在原中将の奥方であられるか? ご挨拶いたしたい」
むりに威儀を取り繕おうとする物言いだった。
蛍の方が、顔を紅潮させて否定すると、男性は言葉を継いだ。
「これは申し訳ありません。もしやと考え、お声がけしてしまった。けれども、少しお話させてもらえないだろうか」
不審に思いながらも応じると、男性は意外なことを切り出した。
「貴女は普段から台所に立たれているようだ。手を見れば分かります。なぜなのでしょう? その容色から、身分ある女性のようにお見受けするが」
「わたしは決して高貴な身分にはありません」 と蛍の方は云った。
「父親が政争に敗れたことをきっかけに、長岡の地で長年一人で生活してきました。家での仕事は、わたしのしなければならないことなのです。在原中将からの親切を受けて、不相応なこの場におります。やはり慣れない化粧は変でしょうか?」
「とんでもない、とても美しいと思います」 と男性は言った。
「わたしも長年に渡って不遇な生活を送ってきた。出世した今でもその思いはわすれぬよう、朝の炊事は自らすることにしている。ゆえに貴女がなぜ家事をなさるのか、興味を持ったのだ。つかぬことをお聞きして、申し訳ありません」
奇妙な言葉遣いの中に、誠実で実直な心を感じた。
――この男性は何者なんだろう。
蛍の方は、そう思いながら話すうちに、思いがけない友人を得たような親しみを感じた。
相手も何か自分を変えようと努力しているような、蛍の方の境遇に通じるものがあった。
しばらく話をしていると、男性の方から、宮仕えに興味はないか、と提案してきた。
蛍の方は、返事に悩んで、ひとまず当たり障りのない言葉を選んだ。
「そうですか、残念です」 と男性は云った。
「しかし、気持ちが変わることがあれば、いつでも仰って頂きたい。不安があれば、貴女のご友人も一緒に役をご用意しよう」
そう話し終えると、従者とともに席を立った。
菊花の方が近づいて来て、声をかけた。
「びっくりなさったでしょう?」
「はじめはそうですね。あの方は誰なのですか」
菊花の方は、歎息をつくとささやいた。
「あの方が今度即位なされた帝なのですよ」




