12-1.菊花の方と恋敵
「こんにちは、蛍の姫君」
蛍の方は、在原中将のじぶんへの呼び方が、親しみやすい調子に変わっているのに気が付いた。
在原中将の挨拶は短く、社交という職務の真っ只中で忙しく動きまわるに相応しく、手をちょっと握るだけだった。
蛍の方は、水無瀬の庭園に張りめぐらせた飾り布を抜けると、
紅葉に色付く美しい景色と、楽しそうに歓談する人びとの優雅な様子に圧倒された。
その間に在原中将は、一段と麗しく着飾った二条の方に、彼女の到着を知らせた。
二条の方は、自ら案内役を買って出た。
「こんにちは、蛍」 と二条の方は云った。
「相変わらず自信のない顔ね。こちらへいらっしゃい、改めて支度をして差し上げます」
邸宅の奥の部屋へ誘いこむと、化粧の準備をさせた。
女郎花の衣装も化粧品も、在原中将が都から買い集めたものだ。
蛍の方が、いかに自分には不相応なものであるか語っていると、二条の方は話題をさえぎった。
「惟喬親王のことはご存知?」
「お名前とお顔だけ。あとは在原中将からお話を聞いているだけです」
「それで十分だわ。菊花の姫君はどうかしら?」
名前はどこかで聞いたような気がした。
「菊花の姫君は、藤原北家末流の娘です。もともと、自信家な性格なのだけれど、最近は新帝の即位があって、いっそう調子が良いみたい。あとでご紹介しましょう」
そういって二条の方は笑った。
菊花の方は、水無瀬の客人たちと積極的な社交をしていた。
細く小さな身体ながら、大胆に着崩した龍胆の衣装に、衣服の上からでも分かるほどに豊か胸元で、彼女の自信がその美貌に由来していることは、誰の目にも明白だった。
源左大臣は、やや皮肉を込めて、"わたし達の愛すべき女神さま"と綽名している。
父親は藤原北家の末流ながら、新帝の外祖父である。
二条の方は、化粧を終えた姫君の手を取って、菊花の方のもとへ連れて行った。
菊花の方の青白い肌はまるで人形のようで、
女神が悪戯のために地上に降りてきたみたいな不品行な魅力に溢れていた。
目許は猫のように大きく切れやかで、黒耀石に似た瞳子がまぶたの間をなめらかに動き、その一瞥によって彼女の艶めきを周囲に送り続けている。
彼女の視界が、蛍の姫君の姿を捉えると、その目の奥に、静かな敵愾心を宿らせた。
蛍の方の黒髪は色が濃く、絹のような光沢を放ちながら、優しい雰囲気の衣装と相まって、独特の美しさを演出していた。
薄くて繊細な口唇に鮮やかなな紅を差し、くっきりした眉墨には才知がひらめくようである。
滑らかで小さな手、控えめな響きの声――
これらもまた全体の調子の中で、衆目に素晴らしさが初めて理解され、人びとをはっとさせた。
「これはこれは、蛍の姫君」 と源左大臣は言った。
「わたしは貴女の美しさというものを、残念ながら十分に承知していなかったようだ。これからも源融は、最も良き友人の一人であるということを、どうかお忘れなきよう願います」
そういうと、源左大臣は全身から頽廃的で、わざとらしい色気をふり撒いた。
この厄介なお調子者は、涼しい顔をして、
周りの人々を激しい情熱と興奮の渦に巻き込むことになった。
彼の言葉によって、今日の花形は蛍の方に決まったことが周知させられた。
これは彼女の言動の全てが、都で新たな風変わりな社交家の誕生として、名前と共に広まって行くことを意味していた。
「融さま、そんな、」 と蛍の方は云った。
「わたしなんかには、もったいないお言葉です。どんなに飾り立てて頂こうとも、中身は変わらないままですから」
「たしかにそのようだ」 そういうと源左大臣は、歩みを進めて云った。
「また"融さま"と呼んで頂きましたね。貴女は、初めてお会いした時のままの可愛らしさを失わずにおられる。その魅力を上手く伸ばすことができたようです。貴女を目にしたら、孟子も自らの性善説の正しさを確信するに至るでしょう」
蛍の方が挨拶してまわるほとんどの人間が、一目見たばかりでは、彼女だと気が付かなかった。
祝宴に突如として現れた、出自の分からない美貌の女性に驚いた。
高貴な女性のようにも見えるが、どこか不安そうで、何も目に入っていないような様子なのが、人びとに疑問を抱かせた。
どこかで会ったことがあるような、でもこんな人ではなかったような――
水無瀬の客人たちは、名状しがたい不思議な感覚にとらわれた。
――もしかして蛍の姫君なのでは!
そう気が付くと、改めて非常な驚きを感じるのだった。
菊花の方は、少々不満な様子で、この一連の流れを見ていた。
しかし、いちばん不愉快なのは、友人の桜花の方に同情され、慰められたことだった。
二人の姫君の間には、性質上惹かれ合う部分と、好敵手として牙をむき合う部分とがあって、一時は親しくしていたかと思うと、些細な出来事から激しい友情の危機に見舞われた。
お互いに気に入り、怖れながらも、追いかけているところは、決して隣合って咲くことのない、異なる季節の花さながらだった。
最近はというと、菊花の方が優勢なはずだった。
政界において、一つの決定的な大勝利を収めたばかりなのだ。
氏族の末流にありながらも、血筋の争いで本家に優越して、彼らの特権を奪い、引き離し、手に入れたところだった。
菊花の方は、これ見よがしの態度で、現実離れした陶酔感に浸っていた。
これからは私の時代よ、と言わんばかりに、期待に心奪われ、好奇心をそそられ、魅入られていた。
その様子を耳にした桜花の方は、機会があれば皮肉の一つでも言ってやろうと、心に決めていたのだった。
二条の方が蛍の姫君を連れまわし、あちこちに彼女を紹介している間、庭園の反対の隅から鋭い視線がこちらに留まると、二条の方はにやりとしながら、蛍の姫君にささやいた。
「ご覧なさい、"女神さま"がご機嫌斜めですよ」
蛍の方は、恐ろしくて、不安で、目を上げることができなかった。
けれども、菊花の方は、飾り布をまくって現れた在原中将のほうへ顔を向けていた。
在原中将の後ろから、三芳野の姫君が入ってきた。
蛍の方よりもいっそう引っ込み思案な性格の彼女も、在原中将の助言に従い着飾ることで、印象を大きく変えていた。
「これはまた!」 と源左大臣は言った。
「今日のわたしどもは、舞蝶のように花を渡り歩き、その甘美な味わいを知る義務があるようです」
三芳野の姫君は、よく言っていることが解らず、
「そうなのでしょうか」 とだけ云った。
陸奥の方が言い添えた。
「貴殿の心は、いつもふらふらしておりますのね。あっちがいい、こっちがいいって、結局なんでも良いんでしょうね。せっかく頂いた瑠璃硝子の髪飾りも用無しですよ」
この状況に対する怒りが、あるいは嫉妬が、いきなり菊花の方の心をつかんだ。
同時に突然の苛立ちが、ここにいる全ての人間たちに対して生じ、身を震わせた。
彼らの生活、思想、趣味、浮ついた性格、見識のない嗜好を許すことができない。
在原中将が、三芳野の姫君に体を寄せて、小声で話し始めたのをきっかけに、世界から背を向けて遠ざかった。
そして、歎息をついて、深呼吸すると、こう考えた。
――どうやら、わたしも立派に見せるためには、努力が足りないみたい。
こうした素直な性格が、彼女の美徳だった。




