11-4.野分の候
夜になると、夏の暑さも落ち着きはじめ、
風の音と冷たさが、目には見えない季節の移り変わりを感じさせた。
在原中将は相手の方へ振り向くと、両手を伸ばして、うっとりさせるような誘いの仕草を見せた。
二人は抱き合い、幸福と悲壮とが二つに重なる奇妙な感覚に包まれながら、目を閉じた。
破られることのない夜の静寂に包まれ、長い時間をかけて、衣服の奥の体温を確かめ合った。
蛍の方はひどく暖かく、口元から女性特有の甘く湿っぽい、少し生々しい香りがした。
再び別れる前に、二人は庭をひとめぐりし、夜空の月の外には、誰からも観られることのない緑に囲まれた一画に腰を下ろした。
蛍の方は、穏やかな気持ちになって、まるで聖なる台座から彼女のために降りてきた偶像に語りかけるように話した。
在原中将は聞きながら、疲れにぐったりしていたけれども、
そうした時の身に宿る倦怠感は、不思議な心地良さに似たものがあって満足した。
在原中将が愛情深い態度を変えることはなかった。
少しだけ無理をした優しい笑顔で表情を照らし、相手の手を同じ強さで握り続けていた。
頭がぼんやりとして、言葉を音楽のように聞くことしかできなかった。
在原中将は、ふと思い出したかのようにつぶやいた。
「明日はどうしても行かなければならない。小野宮さまに都での出来事をお伝えしなければ」
蛍の方は、来たときに開けた戸まで、彼をそっと送って行った。
在原中将はふらふらしながら、辺りをこっそり見まわすと、壁伝いに部屋の中へと去った。
蛍の方は一人になった途端、抱擁の後が胸に残す突然の空白に苦しんだ。
在原中将がまた遠ざかり、逃げて行くような、二人の心を引き裂いてしまう感じがして、自分がまるで彼から何一つ手に入れられなかったみたいに、運命に打ち捨てられ、孤独でいる気がした。
庭園の小石を踏みしめながら、かつて桂川の橋の上で感じたのと同じく、期待と現実の間で葛藤した。
夜中まで外にいても、愁いが晴れない。
蛍の方は、じぶんが相手の腕の中で身を任せている時以上に、切実に遠くから彼に身を捧げた。
台所に行って何を食べているのかも分からないままに夜食をとり、
墨も擦らず白紙に向かい合ったきり、いつの間にか眠りについていた。
次の日は一日がひどく長く感じられた。
空の色合いが曇しく、在原中将の帰りが不安になった。
二日目の昼、物凄い雨と風が南からやってきた。
幸い在原中将は、午前中に帰宅を果たしていたので、つらい待機の苦しみに長くとらわれずに済んだ。
在原中将は、薄暗い空の、庭の木々を揺らす雨と風とを眺めながら、表情は穏やかで、にこやかだった。
二条邸の人びとは、不思議な興奮に包まれて、一日双六遊びに熱中した。
蛍の方は、もうすぐ得られたはずの恋の恍惚が、二人の間に全く訪れる気配がないのに動揺しつつ、官能の夢を少しずつ忘れて、実際に得たものの与えてくれる確かな喜びを識ろうと考えた。
ときに思い出は、優しい愛撫以上に強くわたし達の心を締めつけ、血の滲むほどの痕跡を残したが最後、決して消えることのない束縛として身を捉え続けるものとなるのだ。
甘く浮き立つような夏は過ぎた。
蛍の方には、終わりがないように感じられた日々も、はかなく過ぎ去った。
けれども、彼女の心の裡には永遠に、しかし人びとにとっては消えたまま、彼女ためだけに思い出は生きていた。
いつでも失望に責め立てられてきた心には、気が付くと、慎まやかで人目に付かないほどの小さな幸福の兆しが見え始めた。
大好きな友人たちに囲まれて、毎日の食事の楽しみや、めずらしい花の宝庫となった庭園の魅力に、想いをいっぱいにした。
友人たちは、危険や秘密の匂いには事欠かないというのに、ここでは思いがけない平和が実現されている。
蛍の方は心をひたすらに尽くすことで、愛情を募らせ、久しぶり家族といるような温かな気持ちを感じた。
ある日、在原中将は云った。
「蛍の姫君、貴女はそろそろ人前に出なければならない頃です。近く開かれる水無瀬での祝宴に参加して下さい」
蛍の方は、悲嘆に暮れた。
――また、どうして。こんなにも早く。
「変わる決めた、と以前の貴女は仰っていました。だとすれば、多くの友人との社交は必須です」
その通りだと、蛍の方は認めて、参加を約束した。
そして、続けて質問をした。
「それではたくさん人を呼ぶんですね」
「もちろん!」 と在原中将は言った。
「それだけではなく、今回は盛大なお祝いなんですよ」
蛍の方には、思い付かない報せだった。
「どういったお祝いなのでしょう」
在原中将は、満悦のようで、笑い声を抑えながら続けた。
「小野宮さまを散々に口説きましてね、あの方の出家を祝うための宴会を、水無瀬の別荘で開いていただくことになりました。汚辱に塗れた俗世に別れを告げて、自由と道徳を称賛する――物分かりの悪い僧侶たちは、お怒りでしょうが、関係ありません。わたしもなかなかやるでしょう?」
「なにかひどいことになりませんか」
「なにを今更! これ以上ひどくなることがありますか。それに参加者のほとんどは貴女もご存知の方ですよ」
「その宴会には、やはり出席しないで済ますことは出来ないのでしょうか? こうしてゆっくり過ごしている方が、実はわたしは幸せなのですが……」
在原中将は、とても驚いた表情で、席を立った。
秋めく庭の風情を眺めながら、その背中は悲しんでいることが分かった。
「申し訳ありませんでした、蛍の姫君。次こそ貴女に楽しんで頂けるのではないかと、勝手に想像しておりました」
在原中将は、二条邸での夕食会でのことを、まだ気にしているらしい。
「ですが、貴女の意志を尊重いたします、蛍の姫君。貴女はわたしにとって誰よりも大切にすべき方。これだけが理由です」
蛍の方は、胸がいっぱいになって、気が付くと言葉を口にしていた。
「ありがとうございます、業平さま。必ず参加いたします」




