11-3.日々の味わい
在原中将と鳥羽で別れてからというもの、
家の中がきれいに整えられていないと不安になってしまう蛍の方だった。
在原中将からもらった品々の一部は、庭の手入れの費用に当てた。
夕食時に飲む濁り酒も二、三本買い求め、三芳野の姫君となかなか愉しんだ。
夏の生気を受けて、庭の草木は数日もすれば伸び放題だった。
二人は湯を沸かしては繁茂する草に注ぎかけ、敷石を整えたり、花に悪さをする虫を取り除いたり、想像以上に苦労した。
二条邸の庭園は、源左大臣によって造営を指揮されており、季節に応じて目を楽しませる植物が数十種類は集められている。
こんなことなら都で六条河原院の作庭を参考に見ておくべきだったと後悔した。
蛍の方は、庭が美しくなるほどに何かに勝利を収めたような気分になり、
女主人とその友人たちの帰宅が、ひどく待ち遠しく感じられた。
三芳野の姫君から得意の裁縫を教わり、
反対に蛍の方は、食べ物を煮炊きする上手い方法を伝えた。
二人はいつの間にか姉妹のような気分になって、穏やかな日々に小さな幸せを感じた。
「姫さま、」 と三芳野の姫君の従者は云った。
「わたしは貴女さまが、蛍の姫君とお知り合いになり、毎日を楽しそうに過ごしているのを見ておりますと、それだけでこの地にやってきて良かったのだと思います」
三芳野の姫君も同じ意見だった。
じぶんが在原中将にどんな感情を抱いているのかは分からないけれども、
生き方を選び、その道を歩いて行こうと思える自信のようなものが芽生えてきていた。
貧しい育ちの二人の姫君は、倹約をしながら、ときにちょっとした贅沢をするのが、いちばんの喜びだった。
ある日、近所の牛に子どもが産まれたというので、祝いの品を送った代わりに生乳をたっぷり貰った。
蛍の方は、それに蜜を合わせて蘇と呼ばれる菓子を作ろうと提案した。
蘇は古くは文武の帝が愛好した高級菓子である。
牛乳に蜜と塩を混ぜて、長く煮詰め、それをしばらく乾燥させることで日持ちもする。
台所の日蔭になった涼しい場所に置けば、
もしかしたらみんなにも食べてもらうことが出来るかも知れない。
二人は半日ほどかけて、代わるがわる鍋に火を入れ、中身をかき混ぜ続けた。
食べてみると、甘味の奥に、牛乳の独特の臭みがあって、一気に食べられるものではないと分かった。
文武の帝は、病を得ることが多かったというから、滋養のための薬として食膳に上がっていたのだろうと予想した。
三芳野の姫君は云った。
「これは気にするべきではありませんね。わたし達が元気な証拠なのですから」
在原中将から帰宅の知らせを受けたのは、次の日だった。
蛍の方は、朝から念入りな掃除と片付けをはじめ、梯子に上って壁布のゆがみを正したり、香を焚いて家中に薫りを染み込ませたりした。
頭がのぼせて、身も心も興奮していたので、これまででいちばん面白くて気持ちの良い仕事をしている気分になった。
ことあるごとに陽の傾きを確かめ、彼らが帰って来るまでに、あとどれくらい時間があるのかを計算しては、その身を急かして、さらに部屋を良くしよう、これ以上にない絶妙な調子で家具を組み合わせ、整えようと奮闘した。
三芳野の姫君も慎重を期して、部屋の隅などにほこりが溜まっていたりはしないか、家具に新しく傷跡が出来ていたりしないか、確認し始めた。
二人はこの家の静寂の中で、期待と焦燥に胸をこがしながら、夢想に満ちた言葉を交わした。
言葉もやがて役割を果たさなくなると、二人でじっくりと庭の景色を眺めた。
日射しが木漏れ日となって草の上に降り、とりわけ夏の小さな花々を可愛らしく温めていた。
天も二人の努力を飾るのに、遠慮せず応じてくれたのだ。
それから蛍の方は、格子に身を寄せて待ち構え、
時おり主人たちの歩く音が遠くの方から聞こはしないか、細めに開けて確かめた。
陽も落ち着いて、生温かい風が吹くと、東の空に浮かぶ薄青い昼の月が続いて現れた。
蛍の方はいつの間にか、うつらうつらしていたが、
片耳をつけている戸板が二度叩かれる音がすると、驚いて目を覚ました。
入口の方からは何の音もしなかったはずなのに。
蛍の方は、戸を開けた。
在原中将だった――彼もびっくり顔で見ていた。
まずは深く寝入った様子の三芳野の姫君をじっと見つめ、彼らの他に知り合いなど一人もいないことを確かめた。
在原中将は突然、甘美な挨拶をすると、満足げな微笑をうかべた。
蛍の方は、その痛所である口元に手を当て、顔を真紅にした。
次に在原中将は、庭を見まわしながら嬉しげな好奇心を示した。
「素晴らしい景色ですね。お二人の心遣いに感謝します」
そこに二条の方の叫び声が聴こえた。
「まあ、なんてきれいなんでしょう。予想外だわ。本当に魅力的です」
二条の方は、顔を覗かせると感謝を伝えた。
在原中将は、枝葉を通じて斑らになった日光がきらめいているのに目をとめると、花を一輪摘み、親愛の情として、蛍の方の翠髪に挿した。
三芳野の姫君は寝返りを打った。
在原中将があまりにも満足そうに家中を褒めそやすので、蛍の方はその胸に飛び込んでしまいたい気持ちになった。
けれども、心の底では、もう少し場所よりも自分のことを構ってくれても良いような気がした。
周りを見渡す在原中将は、あくまで自然を愛する風流人といった感じで、その感情が人に対して向けられている様子はなかった。
あくまでも庭と部屋という物に興味を惹かれているのであって、二人の女性の努力はその次であるような印象を受けた。
だとすれば、彼のくれた証というのも、称賛や感動に与えられたもので、愛情に由来するものではなかったのだろうか。
しばらくすると、家中は数刻前の静けさが嘘だったかのように賑やかになった。
三芳野の姫君も起き上がると話題に加わった。
「思ってたよりも大したことなかったわ、都なんて」 と二条の方は言った。
「実兄もわたしがいれば、そう増長することもありません。公卿たちにも、ずいぶん気を遣わせてやりました」
葡萄酒を飲んで、どんどん勝ち気になって行く二条の方に、
三芳野の姫君は、作り置きした蘇を食べてもらうようにした。
二条の方は、美味しさを称えながら、次々と口へ運んだ。




