11-2.鳥羽の作道
平安京では、何か問題が起きていると分かった。
手紙を出しても上手く届かなかったり、また盗まれたりしたらまずいと思い、すぐにこちらから迂闊な返事は書けなかった。
夕食を済ませると、蛍の方はすぐに文机に向かって、いま胸に感じていることを、なるべくありのままに在原中将に宛てて書き綴ろうとした。
三芳野の姫君と内容を議論しても、完成までには長くかかり、苦心させられた。
どんな表現も文章も、あるいは着想そのものでさえも、凡庸で本心を伝えられないように思われた。
朝起きたとき、在原中将が届いた手紙には、
――むやみに心配しないこと、そして都の外での遊興に徹するべきこと、などが追って書かれていた。
蛍の方は、いっそう何と返事をすれば良いのか分からなくなった。
次の日の午前中、三芳野の姫君は少し気分を変えるために外出しようと提案した。
二人は鳥羽の辺り、鴨川に面した街道で散歩をした。
早めに到着したので、南岸の巨椋池のほうまで足を伸ばした。
通りすぎるのは、気忙しいそうに都へ向かう官僚や商人や、あらゆる職種の働き者ばかりだ。
彼らの急ぎ足を見るたびに、都の様子によくない想像ばかりをしてしまい、不安感ばかりが募って行く。
遠くの地平線まで続く青空を、鳥のように飛んで行けたなら――
そんなありきたりな願望を抱いてしまうのも、切実すぎる感情に由来していた。
巨椋池は、池というには余りに広大だった。
複数の河川が低地に流れ込み、いくつかの小島を水面に浮かべる景勝地として知られている。
二人は高台に上ると、自然の創り出した庭園に圧倒された。
風が吹くと、砂の上に波がうち寄せ、池が静かな呼吸をしているようである。
遠くの方で、微かに鐘の音がした。
都の東寺が、遥か彼方の田園地帯にまで時を知らせていた。
間もなく都のほうから、めずらしく歩いてくる人影が見えた。
立ち居振る舞いから高貴な人物であると見て取れたが、大荷物を牽かせて歩いて来た。
木陰を抜けた辺りで、蛍の方はあっと驚いた。
見慣れた人物だったにも関わらず、身なりが全く違っていて、暗い色の地味な装いがあまりに似つかわしくなく気が付かなかった。
彼はその間に周囲を警戒しながら、高台へ登って来たけれども、
まっすぐに歩く様子を見ると、昔からこの辺りには馴染みがあるようだ。
「実にありがたい、」 と在原中将は云った。
「わたしはこの場所が好きで、時どき遊びに来るのですよ」
裾をたくし上げて最後の石段に足をかけると、ひどく気取った歩みぶりでやってきた。
蛍の方は、早く会いたくなって勢いよく進んで行くと、
近づくなり彼女は、愛想よく微笑みながらも、やや懸念を抱いた表情で云った。
「なんて危険なことをなさるのでしょう! そんなふうに姿を見せてはなりません。さあ、こちらに身を隠して。一体どうした理由があったのですか?」
蛍の方は、ひたすら尋ねずにはいられなかった。
「愛する御二方の顔を見に参りました」 と在原中将は自信たっぷりに答えた。
「これでは理由として不十分でしょうか?」
「正気とは思えません」 と蛍の方は言った。
「誰かに知らせてきたのですか? 都では問題が起きているのではありませんか?」
在原中将は咲った。
「もちろん人には言いませんよ」
それから衣服の袖の下に隠れている彼女の小さな手を握り、ため息をついた。
「ご安心下さい。貴女方を心配しすぎて少し頭が変になってしまった、くらいに捉えていただければ良いのです。わたしからの手紙は届きましたか?」
「胸に響きました」
「怒ってはいないのですね。それだけで結構です」
「まさか。怒るはずがありません。とても親切なお言葉だと思いました」
蛍の方は、感謝と激情が直接伝わるような熱い言葉を探したけれど見つからず、そもそも余りに感動してしまって、言葉を自由に選ぶだけの余裕が残されていなかった。
「実を言うと、」 と在原中将は続けた。
「こちらまで戻って来たのは、米や絹衣をお届けするためなのです。ひもじい思いをしませんでしたか? 急な予定でしたから、備えや蓄えが不十分だったと思います」
三芳野の姫君が答えた。
「わたし達は二人で、毎日食事の支度をしていて、あまり無駄遣いしないように過ごしているんですよ」
在原中将は、温かく見守るような微笑を浮かべた。
三人は街道沿いの木陰にある岩に座ったが、
周りにはほとんど人はおらず、どこからも姿を見られずに済んだ。
この時間、巨椋池にいるその他の人間は、三芳野の姫君の従者と、数名の漁師だけだった。
目の前の道を運脚が走って行ったけれども、姿は見えない。
枝葉がつくる暗がりの裡で、遠くの足音や風の響きを伝え、
まだ何を話せば良いのか解らない三人は、周囲の美しい鳥羽の風景に目を凝らしていた。
三芳野の姫君は、沈黙に耐えきれず云った。
「ここはとても良いところですね」
在原中将は、何か考えにとらわれたように答えた。
「都の東方、音羽山にも素敵な場所がありました。ね、蛍の姫君」
蛍の方は突然、山中の清流で身を抱かれた心震える思い出にとらわれた。
あの二度と訪れることのない高揚感――
それが過ぎ去ってしまったのを悔いるように、思いを噛み締めて言った。
「あそこもとても素敵な場所でした。忘れられないくらいに」
「でも、今こうして距離を置いて考えてみると、ちょっと怖くなりませんか?」
在原中将は、遠くを見つめながら続けた。
「もしもう一度同じことをしなければならないとしたら、ひどい眩暈に襲われるかも知れませんね。あの時は自然の空気と日差し、そして酒に酔わされていたのでしょう。目の前の景色だって実に素晴らしいと思います。わたしはどうも都は好きにはなれませんね」
蛍の方は、最後の言葉に少なからず衝撃を受けた。
都にいた時、二人の間に芽生えるたはずの何かが、すでに失われてしまったような予感がした。
――本当はどこだって良いのに。在原中将の傍にいられるなら。
そして、腰を上げると、在原中将が持ってきた荷物を受け取り、手配をするために道の先へ出た。
林の中には、三芳野の姫君と在原中将の二人が残された。
「何かお話があるのでしょう?」 と在原中将は云った。
三芳野の姫君は、それには答えず、ぎゅっと手を握りしめた。
「友人の好意を裏切ってはならない――わたしはつねにそうありたいと思っております」
そういうと、在原中将は緊張をこらえて震える手に、軽く自分の手のひらを押しあてた。
三芳野の姫君は、優しい言葉をかけられるよりも深い幸福感に満たされて、今まで胸を締めつけてきた気詰まりな想いから解放されて、やっと話せるようになった。
彼女は丁重すぎるくらいの言葉遣いで、
――自分が以前に送った手紙がいかに無作法であったか、不足する品位と教養について好きな感想を持って欲しいということを、ゆっくりと述べた。
在原中将は彼女のことを愛らしく思いながら、本心からの気遣いを示した。
「そこまで深入りせずとも良いのではありませんか」
三芳野の姫君は、相手の正面に向き直り、哀願するような眼差しで、在原中将の目の奥を見つめながら、今しがた告げたばかりのことをもう一度、もっと長く、丁寧な言葉で云い直した。
正直な気持ちに満ちた手紙に書いたことの全てを、改めて強い覚悟を持って伝えた。
「わたしは母親の言いなりのまま恋をして、山城国までやって来ました。しかし、それはもう止めにしようと、在原中将にお伝えしたいたのです」
相手は、煙に撒かれたような気持になって聴いた。
三芳野の姫君の偽りのない語り口によって、今まで誰にされたよりも多く心の琴線に触れられているような気がする。
彼女は話を終えると、最後に簡単にこう付け加えた。
「わたしはこれから、本当のわたしの心で業平さまを好きになりたい――この想いをどうか知っていて欲しいのです」
言い切るなり、三芳野の姫君はすぐに立ち上がって、田舎道のほうへ飛び出した。
友人がてきぱきと荷物の運搬に指示を出している。
三芳野の姫君もその仕事に加わることにした。
蛍の方はというと、もちろん二人の会話は耳に入っていた。
けれども、不思議なくらい心は穏やかなままだった。




