11-1.別れと再会
邸宅の入口の前で待ち合わせた二人は、別れの挨拶をすることにしていた。
先に出た蛍の方は、懸念と幸福の入り混じった胸を刺すような想いで、在原中将がやってくるのを待った。
――これから彼はどうすんだろう。わたし達には、どんな運命が待ち受けているんだろう。
考えてみると、蛍の方は至福とも悲惨とも知れない、向こう見ずな関係に足を踏み入れてしまっていた。
――わたし達は、誰かの意志に翻弄され、世間から切り捨てられてしまうのかも知れない。
在原中将は、二台の牛車を引き連れて歩いてきた。
これから一行は二手に分かれる。
一方は都で新帝の即位を準備し、もう一方は桂川の南西に帰る予定だ。
――次はいつ在原中将に会えるんだろう。都での仕事を早めに切り上げるのか。それとも帰宅を延期するのか。
在原中将の最初の眼差し、最初の一言が不安で仕方なかった。
昨夜の短い抱擁の間、彼の表情は見えなかったし、ほとんど言葉も交わさなかった。
蛍の方は、突然の出来事に何もできず、恥じらいからくる慎しみを観せただけで、むやみに時間を引き伸ばしたりしないで、感謝や喜びを表現することもなかった。
在原中将は、また明日と言ったきり、かろやかな足取りで去って行った。
この一瞬の奇妙な対面が、彼女の心に言い様もない不安を残した。
もう間もなく熟しきるであろう恋の果実が落ちて来るのを、今かいまかと待ち続ける誘惑と焦燥に胸を焼かれる気分がする。
在原中将の声が聞こえたので、びくりとした。
どうやら二条の方が今後の方針について意見したらしく、真剣な様子で議論を重ねていた。
その姿を見つめる桜花の方は、口元にしわを寄せて不満げだった。
蛍の方が身を乗り出したので、彼は気が付いて微笑んだ。
不意に穏やかになった視線に、何か心温まるものが宿っていて、それが顔中に広がった。
在原中将が彼女のほうへ近づいてくると、その親愛の情といったものがより感じられ、蛍の方は大切にされているのだという安心感に包まれた。
「それではこれでお別れですね」 と在原中将は云った。
「残念ながらそうみたいです、業平さま。わたしとしては、表現しきれないくらいに辛いです」 と蛍の方は小さな声で云った。
「またじきにお会いできますから」 そして在原中将はひそひそと続けた。
「しばらくは二条の女君の邸宅でごゆっくりなさると良い。どうも不穏な気配がします」
「本当はすぐにでも帰りたいのだと聴いております。しかし、都の情勢がそれを許さないのだとか」
在原中将は、少し暗い顔になって返事をした。
「今はあらぬ疑念を招きたくはないのです。宮廷の人びとは、新帝の即位に際して、権力の空白を怖れております。普段なら気にならないような行動でも、つい不審感を抱いてしまう。平安京というのは、造営されてから間もなく、世俗での争いごとの舞台となってきましたから。どうも仕方がありません」
蛍の方の御者は、日が落ちる前に到着したいから、早く牛車に乗るように急かした。
蛍の方は、最後に訊ねた。
「それで業平さまは、いつお戻りになられるのでしょう」
在原中将は、ためらう様子を見せた。
「どうでしょうか。はっきり申し上げることはできませんが、課題は山積みのようです。そうすると期間としては……」
いかにも計算しているふりで沈黙したのち、在原中将は多めに見積った。
「二週間から二十日ほど、でしょうか」
「ずいぶんかかるんですね」 と蛍の方は笑顔を作りながら答えた。
「わたしの方は、お部屋を整えて、みなさまのお帰りをゆっくりお待ちしております」
在原中将は、感謝でいっぱいになって、つい小さな手に口付けをしたい衝動に駆られた。
「ありがとう、蛍の姫君」 そういって在原中将は続けた。
「貴女の親しい友人もお招きしております。慣れない家でも寂しくないでしょう。わたしもつねに貴女を想っていることを、どうかお忘れにならないで下さい」
それから蛍の方は、無数の挨拶や感謝の言葉を同じ旅をした仲間たちにも伝えた。
彼女は牛車に乗りこむと、振り向いて見えなくなるまで彼らの姿を目にしながら、一人で都から遠ざかって行った。
蛍の方は、何の寄り道もせずに二条邸へと戻り、移動中も何一つ見なかった。
半日、牛車の隅に身を寄せて、目を閉じ、手を組む彼女の心を占めるのは、一つの思い出だった。
二条邸に到着すると、着替えもせずに、どたばた掃除や片付けなどの仕事を始めた。
普段なら友人たちの楽しいお喋りや、管弦の音の響く大部屋に一人で、
満たされない心を熱っぽくかき乱す焦燥感に責め立てられていた。
いつもなら穏やかな気分でいられるはずの場所で、何も手につかず、全く集中できない。
私生活の趣味としてやりなれている読書でさえも、気を紛らわせてくれないばかりか、体を落ち着かせる役目すらも果たさないのに驚いて、この未知の新しい混乱を鎮めるには、一体どうすれば良いのかと考えた。
外へ出たい、歩きたい、動きたい、という説明できない身体の要求に取り憑かれている気がした。
こうした心の不安定さは、思考が身体に対して求めるもの――
つまりはただ、ある人を迎えに行って再会を果たしたいという癒しがたい渇望の現れなのだった。
蛍の方は、再び笠を取り、戸を開きながら自問した。
――わたしは一体どこへ行こうというんだろう。
答えは返ってこなかった。
けれども、控え目に誰かを呼ぶ声が聴こえた。
「こちらの留守を任されたのですが、お役に立てるのでしょうか」
三芳野の姫君は、在原中将から頼みを受けてやってきたのだ。
蛍の方は、再会の喜びに心が踊った。
三芳野の姫君の慎み深い言葉や振舞いは、彼女をいつも穏やかな気持ちにさせ、自然な愉しみを些細な出来事の中に見いだすことで癒されていた。
三芳野の姫君もひどい喜びようで、二人は手を取り合って、調子を訊ね、再会を祝福した。
「これから二人で、」 と蛍の方は云った。
「みなさまの帰りに備えて、家をきれいに整えて行きましょう」
二人はまず部屋中のほこりを払い、床木をきれいに磨き上げることから始めた。
三芳野の姫君の従者が、じぶんに任せるよう何度も主張したけれども、彼女たちは相手に休むように言い、仕事を続けた。
桂川沿いの市場にも行った。
都のように毎日開かれているわけではないが、
時おり野菜や雉肉、その他の日用の品々を手に入れるには十分だった。
狭い通りから並木道へと探して歩き、へつらう笑みを浮かべた市場の管理人や、怪しげな華美な姿をした女性たち、薄汚れた布地の張られた店の数々を見てまわった。
ようやく夜になって家に着いた頃には、破れかかっていた円座を新調することができた。
翌日は早朝から家具の整理を再開し、日が落ちるとようやく物があるべきところに収まった。
これらの仕事を終えるのに、気が付くと一週間近くが過ぎていた。
へとへとになって帰宅したある時、文机の上に一通の手紙が置いてあるのを見つけて、胸が高鳴った。
二人で一緒に開いてみると、こうあった。
――思ったよりも滞在が長引きそうです。お二人でゆっくり遊ばれるといいでしょう。埋め合わせは必ず致します。




