10-3.常夏の姫君
山中での冒険を終えた二人が、友人たちの待つ宿まで戻ると、桜花の方が叫んでいた。
「昨夜の宮中では、そんな馬鹿げたことをなさったのね!」
源左大臣は、確信をこめて答えた。
「姫様、何ということを仰る。わたし達は公達を相手にやり遂げたのですよ。何であろうと、それをやり遂げたなら下らないとは言えません」
二条の方は肩をすくめて、冒険者二人に、
「おかえりなさい、いかがでしたか」 と云ってくすくす笑った。
それから一同は、音羽山を下りて行った。
山水を汲み入れ、麓の辺りに着いたときには、夕食時も間近だった。
牛車に揺られながら、背後を振り返ると、暗い空に清水寺の姿がぼんやり浮かび上がった。
西の方にほとんど沈みかけた夕陽の光が、なめらかな黄色い絨毯のように残り日として漂っていた。
こちら側から見ると、本堂は山から近くで見たときの驚くべき迫力といった趣きを一気になくして、遠目から都やその周囲の人びとの生活を見守るような、大らか優しさを感じさせた。
細い木組みの一つひとつが支えとなって、巨大な本堂を崖の上に造り出し、何かの偉大な精神性のようなものを出現させている。
けれども、蛍の方と在原中将は、もはやそうしたことに構ってなどいなかった。
お互いに向かって投げられた網縄に絡め取られて相手のことしか考えられず、もう世の中のことが何も分からなくなり、一人の人間以外の何も見えなくなってしまう、例の牢屋の中に閉じ込められていた。
灯明の賑やかな明かりのもとに腰かけて、料理がたっぷり盛られた皿を目の前にしたとき、二人はふと目が覚めた心地になって、いつからかお腹が減っていたことに気が付いた。
みんなで長い間、食卓に着いていて、食事を終えてからも、お喋りの快適さに月夜を忘れた。
そもそも誰一人として外へ出たいとは思わなかったので、提案自体がなされなかった。
夏夜の美しい月が、庭池の表面を光り輝かせ、微かな風の起こす波紋の上に、詩的な薄明かりで文様を作り出しているはずだ。
あるいはまた広隆寺の境内の樹林に、長く伸びやかな影を作り出し、幻想的な建物の輪郭を照らし出している頃だろう。
しばらくして二条の方は眠気に負けて、そろそろ寝ましょうと切り出した。
この提案はいささかの抵抗もなく、全員に受け入れられた。
熱心なお休みの挨拶に続いて、各々の寝室に入って行った。
二条の方は、酔いと眠気に足許が覚束なく、両脇を友人たちに支えられながら奥へ行った。
その途中、明るい叫び声をあげた。
「融様、いけませんよ。今日は十分に遊んであげたではありませんか。また、じっくり遊びましょう、ね」
蛍の方は、大人の女性らしい悪戯に、自室で顔が赤くなるのを感じた。
伊勢の更衣から叱責の声が飛んだ。
全員の足音が止むと、夜はひどく静かになった。
――今晩は眠れるわけがない、と蛍の方は思った。
灯明を二つ消すと、御簾を引き上げ、夜を眺めた。
奇妙な期待に苦しめられて、体中がぐったりしている。
在原中将はすぐ近く、すぐそこの壁一枚を隔てた向こうにいると知っているのに、織姫と彦星が何の理由もなく会いに行けるのと同じくらい、彼と言葉を交わすことは不可能だった。
喉の奥には感情が引っかかって、心は抑えがたくも虚しい望みに痛めつけられ、実現することのない期待を待ち続ける夜の孤独に耐えきれず、どうやって過ごそうかと自問した。
宿の中だけでなく、街からも次第に物音が消えて行った。
蛍の方は、部屋の隅で肘をついて寝転んだまま、時間が過ぎていくことだけを意識した。
銀色に輝く水面を眺めながら、何らかの奇跡への予感にとらわれたように、就寝の時間をただ遅らせた。
夢と現実の境目で、女性の荒い息づかいが聞えてきた。
せわしなくて切羽詰まった泣き声みたいだ。
向かいの部屋の戸に人の手が触れる。
ゆっくりと震えながら戸が開いた音がする。
蛍の方は、恐るおそる廊下のほうを覗くと、あっと声が出そうになった。
一人の女性が、頭を白い薄布で覆い、絹の衣服一枚で、在原中将の部屋に入ろうとしていた。
蛍の方は幼い頃、
――西京には、"常夏の姫君"と呼ばれる薄命の佳人が住んでいる、と聞いたことがある。
いま目の前にいるのは、彼女の亡霊なのではないだろうか。
美貌の貴公子の魂に触れ、その生命を吸い取ろうとやって来たのだ。
亡霊は部屋に入ると、間もなく後ずさりした。
部屋からは二人の女性が出てきて、小声で何やら口論を始めた。
いずれも相手の不審な行動をとがめ、在原中将の身の上を案じているようだ。
蛍の方は、どのような問題があったのか、と声をかけた。
やや沈黙があってから、桜花の方が答えた。
「大した問題ではありません。在原中将の部屋の前をうろつく怪しい影が見えたので、わたしは先回りをして待ち伏せていたのです」
「わたしはただ、」 と伊勢の更衣は云った。
「みなさま、ひどく酔ってから寝所に行かれましたので、お水を少し差し上げて行こうと思ったのです」
どうやら些細な行き違いであったようで、蛍の方は安心した。
伊勢の更衣の手や衣服から、魚や海藻のような匂いが微かにして、いろいろな手配もしてくれたと分かった。
「ありがとうございます、伊勢の姫君」 と蛍の方は云った。
「明日の朝食が楽しみになりました。しかし、何か食事の準備などがありましたら、わたしにもお声がけ下さい。一人での生活が長く、それなりに心得がございますから」
伊勢の更衣は、手短に感謝の言葉を述べると、自室へと帰って行った。
「貴女にとっての恋とは、いつまでも夢物語の世界なのね」
桜花の方は、そう言って続けた。
「優しさがここまで残酷なのは初めて拝見しました。貴女はどうか貴女のままでいて下さい。何の皮肉でもなく、この優しさは貴女の美徳であると思いますよ。いずれにしても愉快な思いのできた夜となりましたから、わたしは大いに満足です」
桜花の方は、機嫌良く夜闇に消えて行った。
蛍の方には、何のことだかさっぱり分からなかったけれども、ひどく眠たくなってきたので、すぐに休もうと思った。
全ての足音が消えると、月明かりを背景に立ちすくむ男性の姿が目に入った。
ほの影はまっすぐ彼女のもとまで歩いてきて、
「用心しなければなりませんよ」 とささやき、首すじに口唇をあてがった。
次の日の朝食は、山菜が中心だった。




