10-2.音羽山での冒険
高々と立つ清水寺の本堂は、青い空を背景にどんどん大きくなり、下から見上げると、細やかな部分まではっきりと姿を見せた。
この荘厳な建築物は、坂上田村麻呂が夷狄の冥福を祈るために造り上げた。
自らの武威と怖れに満ちた一生を、目に見える信仰として浄い流そうと決心したのだろうか。
かつて奈良の地に敗北した平城の帝も、坂上田村麻呂によって反乱を鎮圧され、仏門に入って余生を送ったのだという。
一行が近辺の宿に到着したのは、昼も過ぎたころで、軽食を頼んであった。
ところが、新帝の即位に際して、品々の準備がむずかしくなっていたから、さらに待たされた。
食卓に着いたのは相当遅くなってからで、みんなひどくお腹が減っていた。
二条の方の持ち込んだ西域の葡萄酒がたちまち場を陽気にした。
誰もが良い気分で、心は幸福に限りなく近かった。
軽食の終わりに菓子をつまみながら、口にした酒のもたらす活気とお喋りの楽しさに、人びとは歓びにいっぱいになった。
心はついどんな提案すらも受け入れる態勢を整えてしまう。
そんな頃合いに、在原中将はささやいた。
「蛍の姫君、夕刻に二人で外へ出ませんか? 橙色の光のもとではまた格別の景色でしょう。この地で忘れられない思い出を作りたいのです」
蛍の方は、つい同意してしまった。
西京の女君は、それを見て見ぬふりをして、
夕飯の支度をさせるために一足先に帰る、と云った。
帰り際、在原中将は女君に声をかけた。
「"常夏の姫君"、お心遣いを感謝します」
「今でもそう呼んで下さるのは貴方だけでしょうね、ありがとう」
西京の女君は続けた。
「ですが、貴方の曖昧な態度は、蛍の姫君を混乱させて、いつかは失望させてしまうだけですよ。恨まれてしまうような優しさを向けるのは、貴方らしくないと感じます」
在原中将は、後ろめたそうに、
「承知しております」 とだけ云った。
心遣いを示すつもりが、かえって不興を買ってしまったのだろうか。
蛍の方はというと、桜花の方からすっかり気に入られていた。
蛍の方はお世辞で彼女の意見に賛成し、世間で言われているよりも平安京は、ずっと素晴らしい場所だと評したのだ。
旅客の酒量は増えるばかりだった。
蛍の方は喧騒に紛れて、食卓を後にすると、
在原中将と一緒に山道を通って行った。
樹木は緑をつづら折りに重ねるようなかたちで、奥の院を擁する頂上に向かって階段状に連なっていた。
いくつか大きな古木も見えて、山の永い歴史を物語っていた。
この道は、寺院を包みこみ、あちこちに緩やかな曲がり道や、へこんだところや、広くなった部分など、自然の中を一歩ずつ進むごとに、果てしない拡がりが優しい活力を以て目の前に現れる。
二人は酔いを冷ましながら軽く息を切らし、
あの驚嘆すべき造築物を眺めて、再度目を丸くした。
見上げれば、やや明るさを弱めはじめた空中に、枝から枝へと渡されたいくつもの蔓草が絡み合い、複雑な刺繍を施していた。
ところどころの花や木の実の一群が、まるで飛び立とうとしているかのようだった。
森と寺院の間の斜面には、ほとんど垂直に切り立ったままの自然の崖が、その迫力を見せつけていた。
在原中将と蛍の方は、立ち止まって眺めた。
いつの間にか繋いでいた手に気が付かないまま、蛍の方はこれまで感じたことのない陶酔感でぼうっとしていた。
在原中将と一緒に、この景色の内へ、あるいはもっと別の場所へ、どこまでも入っていけそうだ。
――この険しい道がどこまでも続けば良いのに。
「ほんとうに素晴らしい景色です」
蛍の方は、全て完全に満ち足りた気分で言った。
在原中将は、相手を見つめながら答えた。
「わたしは貴女のことしか考えられません」
彼女は顔を隠して言葉を継いだ。
「わたしは余り詩的なほうではありません。ですが、この景色には、感動させられました」
在原中将は、再びはっきりと言った。
「貴女のことが好きです。他の景色など目に入りません」
蛍の方は、じぶんの腕が軽く押されるのを感じて、それから二人はまた歩き出した。
寺院の管理人から見つからないように姿を隠し、森の裡を抜けて行くと、
音羽の滝に通じる水の流れが、山肌を沿って音を立てているのに出会った。
側には、小さな祠があって、清らな流水を見守り、祝福しているかのようだった。
中には、すでにいつ誰が、安置したのかも解らないほどに苔むした木彫りの仏像がある。
まるで山の自然がその霊力によって、祈りの結晶として生み出し、そこにあるかのような印象を与えた。
蛍の方は、静かに手を合わせると、家族の幸せを願った。
――黄泉や極楽の世界では、どうか幸せになって欲しい、と思った。
在原中将は、静かに言った。
「わたしも祈らせていただきたい、貴女のご家族のことを」
蛍の方は、質問を呑み込んだ。
「わたしが必ず幸せに致します」 と在原中将は続けた。
「蛍の姫君を幸せにするのは、わたしの義務であると思っております」
二人は立ち上がって、周囲を眺めたが、ろくに見ていなかった。
――在原中将はどうして自分の家族のことを思わないんだろう。
目の前を流れる清流には、一時の憂いを忘れた。
この小川は山中の間、自然の石段をそれなりの勢いで流れ、周囲に颯爽やかな風を送っていた。
「この先は行けるのでしょうか」 と蛍の方は質問した。
「通行止めのようですね」 と在原中将は答えた。
しばらくして在原中将は、向こう岸を指差した。
蛍の方は迷った。
濡れた岩場に足を滑らせたら危険ではないだろうか。
在原中将は、彼女に訊いた。
「あなたもいらっしゃいますか?」
それから笑って続けた。
「わたしはこれより困難な人生の道を何度も乗り越えたことがありますから」
在原中将は、狭い足場を進み、流れの弱いところまでたどり着いた。
蛍の方はあとから手近な岩を伝いながら、動揺と恐怖を抑えて、彼の差し出した手にしがみついて進んだ。
在原中将が、頼もしく、動じることなく、頭も足許もしっかりしていると感じて、蛍の方は、怯えつつも嬉しくなり、男性の身体的な魅力をはじめて知った。
彼らは水辺に二人きり、鹿や野鳥たちと同じ視界で世界を眺めた。
姫君が震えているのに気が付いて、在原中将は尋ねた。
「目が回りますか」
蛍の方は、小さな声で答えた。
「少しだけ。でも、怖くはありません」
在原中将は、彼女に近づくと、体に片腕をまわして支えた。
蛍の方は、この少し荒っぽい助けを受けてすっかり安心したので、首を上げて遠くへ目をやった。
在原中将は、ほとんど彼女を抱きかかえるようにしていて、されるがままだった。
しっかり守られているおかげで、野生動物の気分になったみたいな心地良さに浸りつつ、まるで何かの物語の主人公にさせてもらったような気がして、感謝の気持ちを抱いた。
在原中将は、最後までどこにも口唇をよせることはなかった。




