10-1.清水寺へ観光
大きな牛車が朝を迎えにきた。
邸宅の入口前に敷いた砂の上を走る音がしたので、
蛍の方は、部屋から身を乗り出すと、すぐに在原中将と目が合った。
在原中将もまた相手を目で探していたのだろうか。
蛍の方は、胸が少しどきどきし始めた。
びっくりすると同時に心に苦しさを感じながら、
身体を駆けめぐる血の流れが今までになく激しくなるのを体感した。
そして、前夜の寝入る前に考えたのと同じことを、もう一度じぶんにつぶやいた。
――在原中将は本当にわたしのことが好きなんだろうか?
顔を合わせてみると、昨夜の疲れが目に見えて残されている。
在原中将が、あまりに思いつめて、人間関係の煩いに苦しんでいるのが見て取れるので、蛍の方は、自分の不安が身勝手な独りよがりなものであると感じた。
二人は目配をしただけだったが、彼の笑顔は青ざめていた。
牛車が走り出した。
鳥たちの歌声と若々しい緑の息吹に満ちた、明るい夏の朝だった。
都の喧騒を抜けると、川を越え、村々を通りすぎ、丘を登り、
道はだんだんと砂利だらけで狭くなって行き、乗客たちは牛車の座席から時どき跳ね上がった。
二条の方は、この道の状態について京の公家たちをからかい始めた。
それで妙な緊張感が解けた。
大気を包む陽気さが、旅客たちの心にも沁みて行くようだった。
道沿いの集落を過ぎたところで、突然、山肌に大きな本堂が姿を現した。
山頂に向かってそびえるような雄大な建築が、幾本もの木組みによって支えられ、朝日を浴びて、澄んだ空気にまばゆく輝いている。
音羽山の縁起によれば、寺社そのものは平安京よりも古くから、この地を霊験で充たしてきたのだという。
旅客たちは、観光もかねて、だらだら坂をゆっくり歩いて進むことに決めた。
参道を取りかこむ柳桜の並木の間を通って行くので、はるか頭上にあって次第に大きくなる岩の上の寺院の姿は、絶えず木陰に隠れたり見えたりを繰り返した。
上り坂の折返しから不意に出現するたびに、近くなり驚きが増した。
岩の台座に鎮座し、静寂さを身にまとった建築を、朝日が白みがかった色調に染めていた。
蛍の方と在原中将は、それをじっと眺め、次いでお互いを見つめ合いながら、
あるいは芽吹きつつある戸惑いと、あるいは激しく渦巻く動揺とに、この夏色の日差しに出現した景色がもたらす詩情を重ね合わせた。
一行は仲良く打ち解けて話した。
伊勢の更衣は、音羽山の霊験にまつわる幻想的な物語、坂上田村麻呂の夷狄との交流とその悲劇をあれこれ語った。
源左大臣は、守旧派の貴族から批判を浴びている建築様式を擁護した。
我が国古来の懸造りに、現代の寝殿ふうの本堂を合わせるのは、建築家の類稀れな技量をうかがわせるものであり、文化の発展に大きく寄与するものだと力説した。
人びとはふと足を止めた。
太い柱木に建てられた本堂がそびえ立っていた。
なかは日蔭になっていて、外からの風が吹き込むと、気持ちの良い涼しさだった。
ただ、場所によっては床木の節目に気を付けなければ、思いがけない怪傷をしてしまうかも知れない。
「この先まで歩いてみましょう」 と在原中将は云った。
彼の指差す先には、これまで歩いてきた参道にせり出すように築られた懸造りの舞台があった。
一同は恐るおそる前に進み、少しずつ遠くに見える都の景色を視界に入れた。
規則正しく区画された土地のなかを、小さくなった人びとが斑点のように動きまわっている。
蛍の方は、都とはなんて奇妙な場所なんだろうと、改めて怖ろしくなった。
自然の理に背くような人間の傲慢さや浅ましさが、全て形に現れているような気がした。
――わたし達はつい他人の心を勝手に推し量り、その規格に当てはめて納得したつもりになってしまう。
そんなふうに蛍の方は惟った。
「素晴らしい風景ね」 と桜花の方は云った。
「貴女も都に住みたいと思うでしょう、蛍の姫君。いつでも土地はお貸しますよ」
慣れない高所にふらふらしてきた蛍の方は、わき道にそれて少し休んだ。
旅客たちは全員立ったまま、あれこれ言い合っていた。
陽差しが強くなってきて、木陰にいながらも身体の平衡を崩してしまいそうな気がした。
蛍の方は突然、在原中将が肩を寄せて来ているのを感じた。
あまりに大胆な振舞いに、はじめは気のせいかとも思ったけれど、
いつまでも肩はそのままで、少しずつ身を深く寄せてきた。
蛍の方は身体を震わせ、心を騒がせた。
もはや在原中将のほうへ目をやることもできない。
この思いがけない気安さに、幸福のあまり麻痺したようになって、めったに口にしないお酒を飲んだ時と同然の混乱した頭で思った。
――こんなことがあるんだろうか。本当の出来事なんだろうか。二人して熱にやられて頭がおかしくなってしまったのか。
人びとが阿弥陀堂や奥の院に向かって歩き始めたから、二人は離れなければならなかった。
そのとき、蛍の方は突然、ほかの姫君に愛想よくしなければならない必要を強く感じたので、機嫌を取るような話し相手になった。
父親とほぼ同程度にお世辞に弱い桜花の方は、誘惑に負けて、間もなくにこやかな表情でいっぱいになった。
参拝を終えて、一行はやっと音羽の滝にたどり着いた。
山頂の真ん中に造られた冷たい水面に足を差し入れた。
手に掬い、口に含むと、清冽で引き締まるような味わいの水だった。
滝の水を含んで湿っぽくなった地面には、たくさんの背丈の低い草が生茂っている。
二条の方によれば、草の名前は勿忘とのことだった。




