1-1.かなうはずのない恋
あるひとりの姫君が、じぶんの人生に決着をつけるため、橋の欄干に身をもたせかけていた。
心地よい夜風が吹くなか、悲しげに真っ暗な川の底をのぞきこむと、ざわざわと低く静かな水の音だけが聴こえる。
水面の近くでは、彼女の名を負う数匹の蛍が、あちらこちらで弱々しい翠光を浮かべた。
まるで死の世界を暗示しているようで、いまから自分がそんなところに行くのだと思うと、恐ろしくて足がすくんだ。
ある高名な僧侶の言葉によると、
死とは、誰にでも例外なく訪れる平等な結末なのだという。
現世でどのような富や名声を得ようとも、あるいはいかに高貴な血筋の生まれだろうとも、結末だけは生まれた瞬間から約束されていて、逃れようがない。
実際に、この言葉を残した僧侶も、ある日、自身でも思いがけなかった結末に出会い、かりそめの世界から退場を余儀なくされた。
それでも、これほどまでに明らかな事実に関して、多くの人びとは、あえて忘れようと努めている。
そうでなければ、彼女のように"もの狂い"に取りつかれてしまうからだ。
蛍の方にとっての死とは、あの僧侶とは異なった意味での必然であり、大切なのは、結末に至るまでの過程だった。
死は平等な結末だとして、実際のところ、そうした事実の確認は、わたし達の心に何も説明してくれない。
――わたし達の心は、どのように死を迎え容れるんだろう?
――わたし達の心は、いつ生を諦めて、死という病にとらわれてしまうんだろう?
疑問の答えについては、彼女の識るかぎりどんな典籍のなかにもしめされていなかった。
蛍の方に、ここまで深く死を懐わせるのは、名前も知らない貴公子への恋のせいなのだ。
都の南西、長岡の地に、彼女は一人娘として育てられた。
より正確にいえば、上に三人、下に一人の兄妹がいたのだけれど、
度重なる天災と疫病によって、一人娘になってしまった、という方がただしい。
人びとは、無実の罪を着せられた親王の呪いであると噂話した。
新都の造営に際して、皇位と官位をめぐる陰謀に、親王は敗れた。
親王は、自らの身の潔白を証明するため、
獄中で絶食するという壮絶な最後を選んだ。
――親王の呪いは本当だったのか?
もちろん、生まれる前の蛍の方には分からない。
ただ、間違いのない事実として、都は新たに北へと遷され、
蛍の方は幼少期を、捨て置かれた長岡の地で住ごすことになった。
母親は蛍の方を、愛し過ぎるくらい大切に育て、
彼女もまた母親の愛を理解し、聞きわけの良い子であり続けた。
母親はじぶんが死んでしまったら、一人きりになってしまう娘を心配して、
彼女のことをいちばんに想ってくれる男性との婚姻を望んだ。
母親は一度としてそのように明言したことなどなかったが、繊細な蛍の方はそうと気が付いていた。
長岡の地には、多くの貴族が何かしらの縁故を持っていたけれど、彼らのほとんどは政争に敗れ、落ちぶれていた。
政界の有力者が、何度か不満を持つ貴族と結託して、王朝の転覆を試みたが、
その結末は、彼らの境遇をいっそう悲惨なものへと追いやるだけだった。
なかには皇族の女性も含まれていたけれど、彼女たちの住まいといえば、草木の生茂る庭の奥の、穴だらけの壁で今にも崩れ落ちてしまいそうなものばかりで、土地は広くとも、生活は蛍の方のものと、大きく変わらなかった。
蛍の方が、まだ幼い女の子と呼ばれるべきだった時分――
うらぶれた長岡には似付かわしくない少年が、近所の女君の家にやって来た。
白磁のように肌色の明い、恥ずかしがり屋で、
近くの女の子たちに、いつも追いかけられて、いじめられていた。
少年が急いで母君の家に逃げ込むと、女の子たちは、こんなふうに呼びかけた。
「あれ、逃げてしまったわ。それにしても荒れ果ててしまったのね、どれだけ長い年月を経てきた宿なのでしょう? 住んでいたとかいう人の訪れもないみたい」
そういって家の前に集まってきて、いつまでも居座っているので、少年は次のように返した。
「草木が生茂って荒れ果てた宿の不気味さは、かりにも鬼が集まってきているからなのです」
すると、女の子たちは、ふくれっ面をして、
「つまらないわ、行きましょう」 と言い、帰って行った。
蛍の方は、この少年の姿を、ほんの一瞬だけ見たばかりであったが、その心の深くに印象が刻まれた。
とはいえ、その印象は、幼少期の恋とも言えない淡い思い出のひとつに過ぎず、次の日には忘れられるようなものだ。
それが蛍の方に、死を考えさせるほどの苦悩を与えるようになったのは、
近所の女君――つまり、あの少年の母親が亡なくなられたときのことだった。
女君の人生は一度も報われることはなかったが、どうやらかなり高貴な血筋の方であったらしい。
死に際しては、形ばかりの贈り物や、使者の来訪によって、蛍の方が知るかぎりいちばん賑やかになっていった。
それでも、夜になると喧騒は落ち着いて、家の壁の隙間から僅かに灯の明かりがこぼれるばかりになった。
そして、涙ながらに声が聴こえた。
「世の中に避けられない別れなどなくなってしまえばいい。いつまでも親の長寿を願う子のためにも」
優しい声の主は、すでに成人したあの少年のものだった。
名前も知らないあの少年の大人びた姿に、蛍の方は、止みがたく、強く惹かれていくのを感じた。
なのに、彼の名前や官位すらも知らない。
彼女の恋は、ここで叶うはずもないものへとなった。
都に縁もゆかりもない蛍の方にとって、あの青年と再び出会い、まして言葉を交わすようなことは、決して考えることのできない景色だった。
顔を上げると、生暖かな風が吹いて、月が傾いた。
草葉と土の交じった初夏の匂いとともに、遠くから響く決断を迫る足音が、こちらに向かって歩いてくる気がした。
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□物語はゆったり目に、人物の過去などを掘り下げながら進行して行きます。
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