9-2.すれ違う心
――どうしてこんなにも、わたしは人でなしになってしまったのだろうか。
宮廷からの帰り道、在原中将は牛車に揺られながら考えた。
――どうしてなのだろう、男たちのせいなのか、それとも自分の? 彼らがこちらの期待するものを欠いているのか、それとも彼らのための何かが自分に欠けているのか?
人を好きになること、理解すること、情熱を傾けること――
それらは自分にとっては、ひどく難しいことなのだと、在原中将は感じた。
とにかく最低な一夜だった。
宮中には、並み居る公卿が列座して、在原中将の到着を待ち構えていた。
藤原摂政基経は、平静さを装いながらも、全身から明らかな敵愾心と策略とを示していた。
在原中将を目にすると、うやうやしく一礼し、口を開いた。
「これは在原中将、久しくお目にかかれませんでした。体調を悪くしているのではないかと心配していたのですよ」
「基経卿、お手紙の返事を滞らせてしまい申し訳ありませんでした。近ごろは憂鬱に心が閉されてしまうことが多く、趣味の狩りにばかり興じておりました」
在原中将はそう言い切ると、完璧な優雅さを保ちながら対座についた。
しばらく緊張した沈黙が続いた。
それから帯刀した源左大臣が、いかめしい音を鳴らしながら部屋に入ってきた。
有無を言わせず、
「わたしも隣席する」 とだけ言って席についた。
はじめは当たり障りのない会話からだった。
季節の変化の美しさ、趣味のこと、『白氏文集』のことなどで、
しかし、基経卿が娘の桜花の方には言及しようとしないのが、在原中将には少々おかしかった。
――これはよほど強く言いつけられたと見える、と在原中将は思った。
源左大臣は、まわりくどいやり方に苛々している様子だった。
相手が麗しい女性でなければ、詰まらない世間話はしないと決めているのだ。
公卿たちの話合いの間隙を突いて、源左大臣は言った。
「わたしたちに言って聞かせたいことは何だ」
多くの公卿は口を閉ざした。
摂政基経は、顔色を窺うようにじっと見つめると、観念したふうに云った。
「ここで新帝への忠義を誓うと言っていただければ、それで良いのです。それ以外のことは何もありません」
「基経卿は、」 と源左大臣は言った。
「わたし達の忠義を疑っておいでか。全くこんなにひどい話は聞いたことがない」
「その通り、疑っております」
基経卿の一言に、場の雰囲気が変わった。
「貴殿たちは、高い官位を得ているにも関わらず、久しく宮中に姿を見せておりませんでした。先の帝が病に倒れられた際も、素知らぬ顔で遊び放けておられたとか。こうした態度は、はっきり申し上げて、見過ごすわけには参りません」
「先帝の病については、」 と在原中将は云った。
「二条の女君から、今は誰にも会いたくない、との意志をうかがっておりました。そこで見舞いの品々を贈るにとどめて、遠地で加持祈祷を行わせました。たいへんお喜びになられた、と聞いております」
「そんな事実を聴いたことはありません」
「二条の女君から知らされていないのですか? いずれにせよ、基経卿にことわりを通すまでもなく、わたし達はつねに帝へ心を尽くしております」
「そうですか、ならばこの件については、多く申し上げることはありません」
在原中将は、早めに話題を切り上げるのが得策だと判断した。
「長居は皆様のご迷惑となります。わたしどもは、これにて退出すると致しましょう」
余計な諍いは、面倒を引き起こすだけだ。
しぶしぶ源左大臣も席を立った。
ところが、公卿の一人、藤原参議諸葛は意見した。
「"この件について"は多く申し上ない、と摂政殿は仰ったのだ。わたしからは、まだ訊ねたいことが山程ある」
「夜もずいぶん更けました」 と在原中将は応えた。
「いくつかの要件については、あとで手紙を送っていただければお答えしましょう。みなで議論すべきことに絞ってお話したいと思います」
「それでは皆の疑念を晴らしていただきたい」 と参議諸葛は言った。
「宮中には、新帝の即位を快く思わない不届き者も少なからずいるという。奴等は小野宮惟喬親王を推挙しようと画策しているというのだ。実に道理に背いた考えであると、わたしは思う。はっきり申し上げよう、その連中とは、貴殿らではないのか?」
「皇位については、」 と在原中将は云った。
「人臣であるわたしどもが、たやすく口出しできるものではないと承知しております。それにわたしは、人の望まない意志を曲げることなど、断じてしようとは思いません」
「それは答えたことになりませぬ」 と参議諸葛は叫んだ。
「貴殿らに謀反の意志がないことを証明していただかなければ、わたしは退きませんぞ」
源左大臣融は、怒りに震えた。
「意志? 意志とは何だ? 皇位の継承は、律令により定められている。誰かの意志によって変えられるものではない。それでは、かつて惟喬親王が皇位を外れたのも、誰かの正しい意志だというのか。先帝の皇子はどうしたというのか。なぜ次代の帝とならないのか。諸葛殿、お答え頂こう」
「それは詭弁だ、源左大臣。わたしは貴殿らの意志を訊ねている。政道を放棄した者に意見される言われはありませんぞ」
源左大臣融は、太刀を抜いて、白木の床に突き刺した。
「道理とは、意志の力だというのか。それならば、わたしも臨むところである。さあ、どなたでも意見せられよ」
「左大臣ともあろう方が、政事を愚弄されるとは、到底許されることではありません」
藤原参議諸葛も、立ち上がると太刀を抜いた。
源左大臣は、怒りに身を忘れていた。
天皇の住まう内裏を血で穢そうというのに気が付かないでいる。
基経卿の狙いは、源左大臣の激昂を誘うところにあったのだろうか。
列座する公卿たちは、
「これはいけない」「お二方とも落ち着いて下さい」 と口々にした。
源左大臣は自ら抜いた太刀によって、確実にその生命を短めようとしていたのだ。
在原中将は俯向いていたが、ややあってから言った。
「基経卿、わたしの非礼を御詫します」
深々と頭を下げると、一座は静まりかえった。
「小野宮さまは、わたしの最も敬愛する方です。あの方の意志に背こうという輩柄は、わたしが決して赦さないでしょう。律令に関わらず、この手で容赦なく裁いて見せます」
「その言葉、」 と藤原摂政基経は云った。
「信用させて頂こう。ゆめゆめそのことを忘れなさるな」
帰り道、牛車に向かって、源左大臣は謝罪した。
「大丈夫です、融殿。わたしは全く気になどしておりません」
在原中将の言葉は、全く以て嘘言を含んでいなかった。
むしろ、嘘言ではない自分に嫌気が差していた。
宮廷での騒動を目の当たりにして、惟喬親王がなぜ出家しようと決めたのか、在原中将は理解してしまった。
意味のない言葉のやり取り、感情の無駄遣い、知性の喪失――
惟喬親王は自分の立場をめぐる、こうした冗長すぎる事柄の総てに打ちのめされてしまったのだ。
惟喬親王の出家を知ったとき、在原中将は絶望し、それから悲しみと怒りに襲われた。
けれども、それらの感情は何一つとして意味がなかった。
惟喬親王自身は、すでに宮中で日々生じている言葉や感情の交換というものに価値を感じていなかった。
在原中将の悩みは、報われることなど決してなかったのだ。
たしかに、公達へと向かう気持ちの興奮は感じたし、今も心の底に残されていた。
それに身を任せさえすれば、引きずり込まれてしまうのかも知れない。
自分は抵抗したり、理屈を説いたり、感情の誘惑と闘ったりしすぎるのだ。
しかし、そんなことに何の意味があるのだろうか。
――こんな夜は、心から愛せる人と河沿いの桜の下を気の赴くままにあるいて、あり余るほどの情熱をこの口唇に与えてくれたなら、どんなに心地良いだろうか。
広隆寺の前に牛車が停まった。
庭の中で在原中将の到着を待ち続けていた蛍の方は、期待に胸を高らせながら振り向いた。
待ち焦がれた例の貴公子だった。
蛍の方は声をかけようとしたけれども、止めてしまった。
「まだ起きておられたのですか」 と在原中将は云った。
「あまり夜露を浴びては、風邪を引いてしまいますよ」
蛍の方は立ち上がり、家のほうへ向かった。
寝室に入ると、御簾を持ち上げて、月明かりの下でどんどん白さを増していく水辺の薄靄を眺めた。
蛍の方は、自分の心の中にも、寂しい気持ちが煙のように登ってきて、暁の空を再び隠してしまうような気がした。
ひどく疲れ果てた在原中将にかけるべき言葉を、ついに見つけることが出来なかった。




