9-1.月夜の悩み
西京の女君とその客人は、広隆寺の境内を出た辺り、自然を見渡すきれいな庭園の真ん中に建てられた邸宅へと足を運んだ。
山菜を主とした夕食を終えてしまうと、明日の観光の計画を立て、
やがて桜花の方は、もう寝ましょうと言い出した。
昼間、父親の藤原基経へ一方的に文句をまくし立てたので、疲れてしまったらしい。
「そうですか、」 と蛍の方は残念そうに云った。
「わたしはお庭を一周りさせていただたいと思います」
西京の女君も後に続けた。
「わたしもそうしましょう。寝所の支度はもう任せてありますから」
西京の女君は、薄衣を肩からかけると外に出た。
白沙を敷いた散歩道が青い月に照らされて、
曲がりくねる道が小川のように走るところを二人で並んで歩き始めた。
かなり長い静寂のあと、西京の女君は、ほとんどささやくように云った。
「先ほどはお邪魔してしまいましたね」
蛍の方は、つい赤くなった顔をそらしてしまった。
「ごめんなさい、蛍の姫君。貴女をせめようというわけではないのです。ただ、最近の在原中将は何だか変だというか――彼の貴女に対する態度は、どうも不思議なのです」
西京の女君は、ややあって続けた。
「在原中将が貴女を長く探しておられたことは、わたしも存じ上げております。ですが、なんだか身勝手すぎるというか、思考の働きが普通ではないのを感じます。立ち回りが妙に下手なのです。在原中将が貴女のことをひいきにしていて、いろいろ意見を変えたというのならそれまでなのですが、彼が何をしたいと思っているのか真意が分からないのです」
「でも、」 と蛍の方は云った。
「本当のところをいうと、わたしにもよく分からないんです」
「そうよね」 と西京の女君は、今度は遠慮なく笑った。
蛍の方からの返事は、余りに率直で、他意を含まないものであったから、安心してしまった。
もし蛍の方がひどく嫉妬深い性格で、その一言一言から在原中将への棘子のようなものが感じられたら、どうしようかと考えていたいたのだが、その心配は全く不要だったと分かった。
西京の女君は、笑顔で黙ったきり、年長の女性に相応しい心遣いの奥底に、言いようのない優しい感情が生まれてくるのを感じた。
彼女は付け加えた。
「でも、心配なさらないで。貴女を悪く扱おうという気はないみたい。在原中将が帰って来るのを待って、明日を楽しみにしましょう。基経卿も何のわけもなく彼を捕らえたりすることはできませんから」
「そうですね」 と蛍の方は答えた。
「わたしも気にしすぎないようにします」
二人はさらに少し歩いた。
今ごろ、宮中ではどんな議論がなされているのか考えないようにする。
「中へ入りましょうか?」 と西京の女君は云った。
「わたしは疲れたから、もう寝ることにします」
「いえ、わたしはもうちょっと散歩してから寝ます。こんなに素敵な庭と夜ですし」
西京の女君は、意味ありげに小声で云った。
「あまり遠くのことまで考えてはいけませんよ。一度疑念に心がとらわれると、物事をまともに見ることができなくなってしまいますから」
蛍の方は、うなずいて歩きはじめた。
庭の奥へと進み、楢木の根元の地面に置かれていた石の上に腰かけた。
しっとりとした涼しい夜で、広隆寺から立ちのぼる焼香の匂いや、自然の大気の香りに満ちていた。
薄雲にかこまれながら煌々と輝く月のもと、世界は静かな美しさを保っていた。
空気は白い煙のようにたなびき、池の面を漂っている。
蛍の方は、手先を組んで膝に乗せ、遠くを眺めながら、
自分の心の中を隠す薄靄の奥を、この月のような明るい知性の光に期待して覗き見ようと考えた。
二条邸での夕食会を経てから、何度じぶんに同じように問いかけてみたことだろう。
――彼は一体何が好きなのか、何が欲しいのか、何を望んでいるのか、どうしたいと思っているのか、そして、結局わたしは何なのか?
在原中将は、これまできっと自分でいることの喜びと、人に気に入られたいという欲求とを、十分すぎるくらいに味わってきたはずだ。
それらを除くと、今まで彼の心を突き動かしてきたものは何なんだろか?
好奇心、だろうか?
たしかに在原中将は、他の人びとを感動させるあらゆるものに、自分が曖昧な興味しか抱けないことに気が付いていた。
それは絶えず自分の容貌や全身を見つめる習慣がついているような人物であれば、当然のことだったかも知れない。
何にも夢中になれなくて、せいぜい気晴らし程度にしか感じられないのだとしたら、在原中将にとっての彼女は、どういった存在なんだろうか。
在原中将にとっての恋とは、口先ばかりの遊戯にすぎないのだろうか。
誰かを心にかける気持ちが芽生えるたびに、その人の心を手に入れようとする狩猟本能が刺激され、その愛着の病熱が体の中で高まって行き、在原中将にとってのこの上ない気晴らしとなっているのだ。
恋の駆引きは、時として社会での成功などよりも、ずっと危険な悦びがあると感じているのだろう。
けれども、そうした感情は長くは続かないし、すぐに飽きたりうんざりしたりする。
在原中将は先を見越しすぎるせいで、最初の時点ではっとしたところ、わくわくさせられ、胸を打たれ、惹きつけられたところが、じきに見飽きて色褪せた詰まらないものに様変わりしてしまうのだ。
在原中将に言わせれば、女性たちはみんな同じとはいかないまでも、似すぎていることは間違いない。
相手に感心のあるみずみずしい感性のある状態に、自分をずっと保ってくれて、
その心を愛情へと投げ込んでくれるだけの素質と美点とに恵まれた人物は、きっとこれまでに誰一人もいなかったのだ。
――だとしたら、なんて傲慢で可哀想な人なのだろう、と蛍の方は推った。
邸宅の入口の方から明るい声がした。
二条の方が大声で問いかけた。
「まだ起きていらしたの?」
「申し訳ありません、蛍の姫君」 と伊勢の更衣が付け加えた。
「ご子息とお話が盛り上がり、ずいぶんとお酒を飲まれたようなのです」
「いえ、それは全く」 と蛍の方は云った。
「わたしは夜風を浴びて、もう少ししてから寝ます」
二人は小言を言い合いながら建物の中に入って行った。
――在原中将を待ち続けよう。
蛍の方は、膝に載せた手をつよく握りしめた。




