8-4.天平の恋心
在原中将は、棲霞観で衣装を借りて出た。
嵯峨野の丘陵のふもとから、広大な平地が続き、
広隆寺の伽藍は、道なりの遠くの方で、山の緑と天空とに溶け合っていた。
都の北西、太秦の地に平安京よりも古くから広隆寺はあった。
聖徳太子から下賜された弥勒菩薩を本尊とし、
新羅から渡来してきた秦一族がこれを管理した。
平安京では、寺院の私設を認めていない。
仏教の法力は、国家を守護するための祈りのみが許され、政治に介入することを、桓武の帝は許さなかった。
それでも、秦氏は平安京への遷都に大きな功績があり、特別に維持された。
大陸風の建築に関する知識は、秦氏によって活かされていたのだ。
蛍の方は、穏やかな造りの楼門に歩みを誘われて、その奥へと入って行った。
手入れの行き届いた庭園が、夕暮れの光の薄く軽い絹衣に覆われて、
その背景にそびえる講堂の陰影がだんだんと暗くなって行くのが見えた。
蛍の方の知るかぎり、最も美しく静謐な場所だった。
それでいて、どこか懐かしいような、天平の遺風をとどめている感じがする。
彼女の愛唱する『万葉集』の世界がそこにはあった。
ところが、在原中将はそんな景色を見ていなかった。
隣を歩く愛おしい姫君の姿が、黄金色の光に包まれているところだけをひたすら眺めていた。
これぼどしみじみと美しい蛍の方を見るのは初めてだ。
どこがいつもと違うのかは分からない。
けれども、今までにない感じで、不意の優美さが、肌や目や髪にまとわりついて、心の中にも入りこんだように思われた。
その優美は、この土地と自然、そして時間が織りなす偶然によって形づくられている。
――恋しい、と在原中将は思った。
これほどまでに彼女を恋しいと思ったことはなかった。
傍を歩きながら、語りかけるべき言葉が見つからない。
在原中将は、男性に特有の突然の衝動に身も心も捕らわれた。
蛍の方の衣装がさらさらと音を立てたり、時どきお互いのひじが触れたり、もの言いたげな瞳と出会ったりするうちに、在原中将のなかの数少ない常識や道徳が打ちのめされて行った。
この姫君に触れることで理性の全てが消え去ってしまい、夢中になる余りに自分がもはや何者でもなくなり、ただ心の思うままに支配されて行くのを感じた。
――基経卿との約束はすっぽかしてしまえば良い、この一瞬のために人生を滅ぼしてしまっても構わない、そう思った。
蛍の方は、身を寄せる男性からの熱烈な視線に気が付いた。
気持ちを探るように手と手が触れるのを感じた。
在原中将にとっては、魅了されることが全てであり、それが例え寺院の中であろうと関係はなかった。
人目がないことをしっかり見てとった在原中将は、奇跡と感動に打ち震え、
光と精気にあふれたこの自然の空気につつまれながら、彼女の耳もとに甘美な言葉をささやいた。
「いけません」 と言っても、彼はやめようとはしない。
彼女の髪を撫で、そこに控え目な口付けをした。
――平城帝はこのようにして身を破滅させたのだろうか、わたしも血を争えないものだ。
在原中将が彼女のもっと繊細なところに触れようとしたとき、遠くの方から名前を呼ぶ声がした。
「遅い到着でしたね」 と西京の女君は云った。
「人手は少ないのですが、きちんとおもてなしいたしますよ。いつ頃、お出になられますか?」
在原中将は、行儀正しく答えた。
「日が落ちたら行くつもりです。基経卿を待たせては申し訳が立たない」
「桜花の姫君はひどく怒っておりました。在原中将をいじめたら許さない、と基経卿に詰め寄っておられたようです」
「基経卿も娘には弱いとの噂話は事実でしたか」
「直断な方は苦手なようです。二条の方とは水面下でばかり争っておられましたからね」
「それは心に止めておきましょう。本来なら桜花の姫君も、頼れる味方として連れて行きたいところですが、今回はかないませんね」
それから西京の女君は、蛍の方のほうへ振り向いて云った。
「姫様、改めてご挨拶いたしましょう。よくぞお出で下さいました。よろしければ明日は一日、わたしにお付き合い頂いて、みなさまでどこか観光したいと考えております」
蛍の方に代わって一人の若い女性が返事をした。
「いやとは言わせません、不愉快な思い出のまま在原中将を帰すわけにはいきませんもの」
桜花の方だった。
「素晴らしい」 と西京の女君は云った。
「それではお夕食をいただきながら、明日の計画を立てるとしましょう」
蛍の方は、お礼を述べて、彼女たちの案内に従った。
在原中将は、笑顔で手を振っていた。
彼女たちの姿が見えなくなると、
在原中将は全身から力が抜けて行くのを感じた。
異常なまでの無気力――それは人が最も望んでいる報酬が受け取れなかったときに襲われる無力感だった。
在原中将は、何も手に入れることは出来なかったし、人生に新しいことも起きなかった。
にも関わらず、ある名状しがたい予感がもたらす陶酔から抜け出せずにいた。
彼は長いこと境内を散策し、太陽が姿を消すまで待つと、
広隆寺の黒衣のような影が夕焼けの水平線に浮かび上がるのを、ついに最後まで眺めた。
在原中将は、今となっては何でもないことを頭の中で喋りながら、
よその他人がいる前ではとても言えないようなことをあれこれ繰り返しつつ、源左大臣の到着を待った。
世界に夜の帳が下りはじめたころ、
源左大臣は、華美な色合いの装束を着て、楼門の前にやってきた。
その段差には、疲れ切った在原中将が座っていた。
源左大臣は控え目でいたかったのと、在原中将が冷淡をこえて敵意に近い態度を見せるのに困惑したせいもあって、早めに出発しようと決めた。
立ち上がらせようと在原中将の手を取ったとき、
彼は二度続けて、奇妙な声色で、「行こう、さあ行こう」 と云った。




