8-3."偶然"の出会い
二条の方曰く、この出会いは全く"偶然"だった。
新帝の即位には、先の帝が病を得たことがあり、
二条の方は見舞いのために一度、京に上ろうとすでに決めていたらしい。
「可愛い息子のことですもの、心配しないはずがありません」
源左大臣は、歎息をついて云った。
「基経卿はご存知なのですか?」
「実兄ですか、」 と二条の方は、考えるふりをした。
「わたしが自分の子どもに会いに行くのに、いちいち許可が要りますか。それとも、何か関係がある、と仰りたいのでしょうか」
――相変わらず危険なことをなさる、と源左大臣は思った。
新帝の即位については、良くない噂話も多い。
少し前、宮中で一人の貴族が殺害される事件が起きた。
先代の帝は、母親の二条の方に似て、型にはまらず、気性の荒いところがあった。
彼の退位は、表向きは病を得た、ということになっているが、
基経卿が事件に乗じて何かしら手を回したとの意見も少なくない。
新帝は基経卿との血縁を持たないが、自身の意向に沿わない母子の影響を、政界から排除するため、手段を選ばなかったのだと言われている。
「分かりました、わたしどもから基経卿にはお伝えしておきましょう」 と源左大臣は云った。
「助かります、やはり親切でお優しいのですね」
二人が互いの心中を探り合うなか、
在原中将はというと、周囲を見渡し、大通りの方まで戻って行った。
――旅装束の女性は二人はいたはずだ。だとすればもう一人は、と思い、不安に胸が潰された。
在原中将もかつてはよく、旅行者の目が見知らぬ土地の思いがけない景色を目の前にしたときの異様な喜びと心配に打ち震えたものだった。
今はあまりに唐突な出来事に心が高ぶったので、
しばらく身じろぎもせず、ただ胸を一杯にして、自分の都での使命も忘れてしまった。
鐘の音が響くと、再会を願う熱烈な思いへ急に引き戻され、在原中将は振り返った。
昼間の朱雀大路は相変わらず穏やかな賑わいで、
買い物帰りの庶民の女性と、いそいそと建物を出入りする下級官吏、そして子どもたちの走りまわる姿が目についた。
もう少しで彼女に会えるのではないか、という期待があった。
もしかしたら、いずれかの小径の端から姿を現すかも知れない。
あの小さな身体で、不安気に都を歩くところを想像するだけで、居ても立ってもいられない。
在原中将は、蛍の方がどこか近くにいるのが感じられ、まだ探し出せていないけれど、なんだか彼女の方も間もなく会える彼のことを考えているような気がした。
二人の目が合うと、蛍の方は申し訳なさそうに伊勢の更衣の後ろに身を隠した。
遠くから見ただけで、在原中将のまばゆいほどの美貌に気が付いていたのだ。
商人たちが気忙しそうに走って行った。
蛍の方は慣れない人混みの中にあっても、
奇妙な装いとなっていた在原中将を見つけ出すことができた。
まだ顔の見分けがつかないうちから彼だと分かった。
けれども、そちらへ向かう勇気が出ず、
――きっと顔を赤らめてしまうんだろう。在原中将の疑惑の目にさらされながら、この偶然をうまく説明するのは無理だろう、と感じていた。
それでも、在原中将の方へ歩いて行きながら、視線は下に外したまま、いかにも都に不慣れといった頼りない様子でいた。
先に声をかけたのは在原中将の方で、しかもごく簡単に、ありふれた調子で済ませてしまった。
「こんにちは、蛍の姫君。申し上げた通り、都もなかなかに見事でしょう?」
この投げかけに当惑して、蛍の方はどういう調子で返事をすれば良いのか分からず、口ごもってしまった。
「あれ、業平さま、お目にかかるなんて幸運です。今日は二条の方の従者として都まで上ってきました」
在原中将は、微笑みながら返した。
「わたしがいる時を選んでくださるとは、なんてありがたい。いろいろご案内いたしましょう」
次いで伊勢の更衣にも挨拶をした。
「姫様、わたしは貴女をいちばんに信頼しております。可愛い友人たちのことを頼みましたよ。大方、まだ追って来るのでしょう?」
伊勢の更衣は、緊張しながら言葉を受け取り、一同で散策をはじめた。
在原中将は、遠くを見つめるような眼差しを投げかけると云った。
「蛍の姫君、都をどう思いますか」
「わたしは、」 と蛍の方は云った。
「これほどまでにすごいところは観たことがありません」
「すごい、とは上手く評される」 と在原中将は続けた。
「もし数日でもここにおられましたら、どんなにこの土地が胸に沁みるか実感されるでしょう。そうですね、なんとも言えない印象をもたらすはずです。少なくとも申せるのは、この地は人があって都があるのではなく、都があって人がある、ということでしょうか。ありきたりですが、光ある物には陰がある、とも言えましょう」
蛍の方には、その言葉の真意をつかみかねたけれども、少なく彼女が永く思い込んできた種類の恐怖はないことは分かった。
しばらく歩くと、伊勢の更衣は、女主人を迎えに行くから、広隆寺の近くの邸宅でまた会うことを約束して離れて行った。
在原中将が、歩きながら訊ねた。
「蛍の姫君、西京の女君を覚えておられますか」
西京の女君といえば、二条邸での夕食会で一度会ったばかりだった。
年若い姫君たちをそっと見守るような優美な女性だと感じた。
「彼女は広隆寺に縁があるのです」 と在原中将は云った。
「彼女の先祖は、飛鳥朝のころに新羅から渡来した秦氏にあたります。平安京への遷都にも力を尽くし、桓武の帝に重用されました。もっとも、一族には技術者が多く、政界から距離を置いている――だから、わたしのような男とも親しくして下さる、というわけです」
あっさりとした言い方で、他意はないようだった。
「しかし、広隆寺に行く前に嵯峨野の棲霞観に行きましょう。そこで源左大臣の家司から、上等な衣装を借りたいと思います。道中、服を少々汚してしまいました。基経卿に単一枚でお会いしては機嫌損ねてしまう」
二人は朱雀大路をひたすら歩いた。
蛍の方は、景色の移り変わりに驚いた。
都といえば、唐風の建築が立ちならぶ異様な場所とばかり考えていたが、
四条の辺りを越えるまでは、長岡でも見慣れた小さな民家でところ狭しと埋め尽くされていた。
瓦葺きの屋根や、青丹色の円柱の建物は、政務に使用されるものだけなのだと理解した。
天皇の後院である朱雀院、官吏を育成する大学と、その別曹などをわき目に歩いていくと、北には観たこともないほどに立派な大門と、それを囲う城壁が見えてきた。
在原中将は、足を止めると云った。
「ここが大内裏――都に最も輝かしい光を放つ場所です」
その表情から心の裡は分からなかったが、奇妙な覚悟のようなものが感じられた。




