8-2.在原業平、都へ行く
在原中将にとって、手紙に追い立てられる一日はひどく長く感じられた。
人声よりも静けさ、友人より孤独が好ましかったので、
雨の音を聴きながら、誰にも会わず部屋のなかでやるべきことを淡々と片付けていった。
翌日の早朝、空も明けきらないうちに牛車で出発した。
源左大臣融は、約束通り供回りをつれて、武官めかして自ら馬に騎がって行くようだ。
この旅を控えて気がはやり、在原中将の前夜は、寝ては覚めてを繰り返していた。
時どき、荷物を運ぶ商人がごとごと音を立てて通って行くのだけが聞こえ、
在原中将の出発したい気持ちを呼び覚ますと、胸が苦しくなるのを感じた。
つい立てた几帳の隙間から、ぼんやりと物悲しい夜明けの最初の光が現れると、在原中将は寝床から起き上がり、表廊下に出て、空を眺めた。
晴れだった――まとわりつくような空気が、暑い一日を予感させる。
何かに取り憑かれたようにてきぱきと身支度をし、必要以上に早く準備を済ませてしまった。
身だしなみを整えると間もなく、近所の猫を撫でまわして時間を潰した。
牛車が動きはじめると、在原中将はその揺れに幸せを感じた。
――こうして一歩ずつ義務から解放されていくのだ、と心が軽くなる。
ところが、桂川沿いまで到着すると、
先日の雨のせいで増水し、渡し舟が出るのは昼ごろになる、と知らされた。
近くに休息できる小屋があり、源左大臣と戯談を言って慰め合いながら、大水をやり過ごした。
けれども、心の裡ではひたすら待つことに集中し、期待に身を堅くしていた。
再び牛車が優しい音に乗せて在原中将を運びはじめたとき、
熱い気持ちは収まるどころか激しさを増し、自分も馬に乗って、すぐに駆けて行きたい衝動にかられた。
こんな子どもじみた自分を愛おしく思いながらも、馬術の訓練をしておくべきだったと反省した。
伏見を過ぎた当たりから、物見の向こうの緑深い森に次第に目を奪われた。
牛車が通っているのは、森の中に挟まれた長々と続くなだらかな登り坂で、柿木や楠木の大樹の葉が夏らしい光線に照り輝やいていた。
森の奥の方から涼しい風に乗せられて、水滴を含んだような柔らかな香りがする。
あちこちで雨後の細い川が、わらびの根元や苔の絨毯の下を流れていく。
せせらぎが一瞬、草の中で光っては消えるのを繰り返して、郊外のすべてをみずみずしい明るさで満たしていた。
在原中将はぼんやりとして、自然の景色が織りなす穏やかな風情の中に、憂いをさまよわせ、紛らわせた。
鳥羽の辺りまで抜けると、北の方に小さく朱色の城門と、その周りにいくつかの先塔が見えてきた。
――ついに都に行くのだ、と思った。
到着はやや遅れてしまったが、大きな問題はないくらいだった。
平安京は、その区画を方形に整える大路に従って人が住んでいる。
「城壁を持たない高慢な都だ」 と源左大臣は云った。
桓武の帝は、唐の長安に学んで平安京の造営の指示をしたものの、
大陸とは違い外敵の侵入というものが考慮されていないのだ。
壮麗な羅城門を抜けると、朱雀大路を中心に左右に町が分かれる。
どちらの南方にも、都を守護するための寺院が置かれ、一定の時刻になると、鐘の音と読経の声が聞えた。
都を高く見下ろす五重塔は、遠くからでも旅人に場所を教えてくれる。
人の往来は都の東――つまり、左京に多く、住民や商人、下級官吏の移動が盛んだった。
市場の規模も人家の数も、右京を圧倒していた。
右京の近くには桂川が流れ、北に高い都の地形も相まって、湿地になっており、律令で禁止されているはずの田地の開発も計画されていた。
北の内裏に近づくほど、高貴な人びとが邸宅を連ねる。
今でこそ治安も衛生も見られるほどになったが、先代の京職に良吏がいなければ、すでに五条の辺りまで、鬼や盗人の巷となっていただろう。
ゆったりとした牛の歩みも、女性たちの街角での立ち話も、子どもたちの追いかけっこも、これら平和な景色を見ることはできなかったのだ。
建物はそれなりに立派なものが多く、悪くないものもあった。
外交施設の鴻臚館は、その一つである。
在原中将は、牛車の中に行李を詰め込んだまま、
鴻臚館に勤める友人の様子について訊いてまわった。
約束までには時間があると思い、舶来の品々に期待して、どんどん北へ歩いて行った。
柵門まで着き、ひとめ見渡すと誰もいない。
あるいはいないも同然で、下男が数名、庭の掃除をしていた。
ほかには若い新羅人らしい男性が一人いて、故郷を憶ってか、放心した目つきで空を眺めていた。
在原中将は、小径の方まで覗きこみ歩いたけれど、結局、期待はずれだった。
大通りに戻って、人びとの往来を避けながら、
あきれた様子の源左大臣のもとに帰ってきた。
道の角を曲がったとき、遠くの方に、めずらしく旅姿の女性が二人で入京してくるのが見えた。
その歩きぶりと衣装から身分ある人だと知られたが、昼間にわずかな従者だけを連れてやって来るのが少し目を引いた。
そこに左京の市場で、真新しい品物が入ったといって人びとが殺到した。
京職の管理によって営業される常設の見世棚では、米や野菜など決められた商品ばかりが販売されていたが、
通りを一つ越えると、私商たちが持ち寄った商品を米と交換して売買を行っていたのだ。
解散を命じても、しばらくするとすぐに集まって来るので、検非違使も注意しなくなっていた。
下級官吏のなかには、彼らを指揮して私腹を肥やす者もいるらしい。
私棚に並べられていたのは、瑠璃硝子の細工品だ。
なかなかに高価だったが、在原中将は自らの着物を脱いで交換しようと持ちかけた。
蛍の方への贈り物としては、これ以上にないものだ。
「基経卿との面会に単一枚でのぞむおつもりか」 と源左大臣は訊ねた。
「それは考えていなかった」 と在原中将は思案した。
「衣服は貴殿の家司から適当に借りるとしよう」
「全く仕方のない方だ。わたしの装束も売りにだそう。そのかわり店主よ、大きいのなら二つ、小さいのなら五つは貰おう」
「これはこれは、」 と在原中将はわざとらしく云った。
「陸奥の姫君も大喜びでしょう!」
「彼女にこれほどの物の価値が分かるものか。一つは二条の方に差し上げようと考えたのだ」
二人は文句を言い合いながら、男性二人が買うには似つかわしくない美麗な品物を大切そうに持って歩いた。
目の前に市女笠が立ち止まると、
「あら、わたしのために素敵なものをありがとう」 と声がした。




