8-1.良い子と悪い子
在原中将は、旅支度に疲れていた。
大した楽しみも期待もない旅路には、行く先を想像するだけで心に重い雲が立ち込める。
この離れの部屋が好きで気に入っているものの、最近は一人でここにいると、いつも胸が締めつけられ、軽い息切れがするような、どこか落ち着かない感じがした。
変に待ち遠しい気分で歩きまわりつつ、何か思わぬ事態が発生して都に行くことができなくなり、このままずっと間延びにさせられるのではないかと思うと不安になった。
表廊下に面したところで足音が止まると、恐怖に身を震わせたが、
次の瞬間には、聞き馴染みのある声で名前を呼ぶ声がしたから、いよいよこの時が来たのだと観念した。
入ってきた蛍の方は、普段は決してそんなことはしないのに深々と頭を下げて、冷たいほどに礼儀正しかった。
「何かお知らせすることはありませんか」 と蛍の方は云った。
「さて、」 と在原中将は微笑を作った。
「どんなお知らせなのでしょうか」
蛍の方は、相手の顔色を探るような眼差しを向けた。
「都に行かれるご予定があるのですね」
在原中将は、突然つよい悲しみに襲われたような表情をした。
「そのようですね、基経卿はそう望んでおられるらしいのです」
「業平さまは、本当に都に行かれるのですか?」
「お座りになって下さい。全てお話しましょう」
在原中将は、俯向いて自分にむけて歎息をついた。
「新帝の即位に関わる問題なのです。基経卿は自らの血縁にあたる親王を位につけることを決定しました。多くの公卿たちもそれに賛同しております。しかし、心底では快く思わない者も少なくはないのでしょう。彼らは先帝の兄君である惟喬親王を利用した下だらない計画を企てているらしいのです。親王は奴等のせいで出家させられたようなものだというのに。忌々しい」
「危険すぎます」 と蛍の方は云った。
「そうでしょうか?」
「在原中将には、疑念が向けられているのです。惟喬親王をそそのかした張本人として」
「ですが、どうしろというのです。行かないわけにも参りません」
「どうにかなりませんか、いま都に行くのは」
「いや、どうにも、わたしには分からないのです。どのように振舞うのが正解なのか。しかし、蛍の姫君、それは実際には、貴女にも分からないのではありませんか」
蛍の方は答えようがなかった。
言い様のない不安だけが、在原中将を引き留めようする根拠だった。
じぶんの預かり知らないところで、在原中将が何かひどい境遇に追い込まれてしまうことは、考えただけで恐ろしかった。
「先ほど源左大臣は、供回りを連れて内裏まで乗り込むと息まいておられました。何か非常な事態が起こると予想されているのでしょう」
「それは実にありがたい! 道中の不安はないようだ」
在原中将の決心は固いらしい。
どんな作戦があるんだろうかと考えたけれど、基経卿の意図と、それに伴う計略が、どこにあるのか分からないので、何も想像が出来なかった。
都は恐ろしい所だと、蛍の方は何となく考えていた。
陰謀と野心がうずまき、それに敗れた人びとの怨嗟の声が響き渡るような場所で、同じ運命にあるべき人間を、地の底に引きずり込もうと、無数の手を伸ばしているのだ。
「姫君が都をひどく恐れておられるのは知っています。しかし、都は想像なされているようなところではありませんし、少なくとも今回に限ってはどこへだろうと行かなければならないのです」
「わたしの父親は都で果てたのですよ」
「それはどうなのでしょうか。わたしには分かりませんが」
気まずい沈黙が流れた。
在原中将も好きこのんで都に行こうというわけでもないのに、非難めいた言葉しか出てこない蛍の方だった。
本来なら相談役となって知恵を貸し、不安をともにするのが理想の姿だった。
感情を優先し、自分の意見ばかりを押しつけるのは不公平な気がする。
――どうして応援できないんだろう、と思った。
多くの姫君の助言を受けてから、誠実であろうと決めていた。
それでも、口をついて出てくるのは、
「行ってはなりません」 の一言だけなのだ。
在原中将は、頭を悩ませてから言った。
「毎日、手紙を書いて送る、というのではいけませんか? 数日後には、羅城門を抜けて、広隆寺の縁者に宿を借りる予定があります。いずれも都でしか見ることのできない素晴らしい建物ですよ。夕暮れ時の景色はじつに美しいのです。友人に良い画家がおります。彼に描かせて手紙と送らせましょう。中国の山水や故事ではなく、本朝の風物を描くことに長けているのです。そして、蛍の姫君、貴女は受け取ったら感激した様子を見せて、愛想よくするのです。友人たちに自慢して見せなさい。軽食をとる時などに、わざとらしくなく、そういえば、というくらいに話題にするのです。貴女は話題の中心となり、注目され、在原中将の最も親しい友人の一人として数えられることになるでしょう。そうすれば、何より淋しくないし、不安が和らぐのではありませんか」
「そうなのかも知れません」
在原中将は、悲しげな微笑を浮かべると、彼女の耳もとに身を寄せてつぶやいた。
「世界中で貴女だけを愛しております」
蛍の方は、赤くなるだけで何も言い返せないかった。
そして、しばらく二人は見つめ合った。
在原中将はにっこり笑い、その笑顔を通して深い謝意と、心からのお礼の気持ちと、率直な好感を送ってきたが、その好感は今や甘さを帯びている。
在原中将は、何かを探るような目で彼女をじっと見ていたが、しばらくすると調子良く言った。
「それでは話はつきましたね、そういう風にいたしましょう」
蛍の方は、弱々しく途切れがちな声でぼそぼそ云った。
「もちろんです、そうしましょう」
そして再び沈黙があってから、在原中将は悪びれもせず切り出した。
「今日はこれ以上お相手できません。都から手紙が山のように来ていて。明後日の出立に間に合うのでしょうか。明日は一日中忙しいし、これから夕食までにまだ三つか四つ用事があるのです」
蛍の方は、苦痛を感じながらも、すぐに立ち上がった。
――在原中将と離れずいることだけが望みなのに。
彼女は両手を口につけると、傷付きながらも、少しの希望に胸をふくらませて去った。
「やり込められたのね」 と二条の方が声をかけてきた。
「はじめに言った通り、なかなか嫌味で優しい男でしょう? 恨まれないくらいには」
二条の方は、彼女の沈黙を肯定として受け取った。
「蛍の姫君、貴女はじぶんを良い子ちゃんだと思っているのでしょう? あるいは、そうあるべきだと永く信じてきたのね。でも、こんなところに出入りしていては、とても良い子とは言えないわ。貴女はそもそも聞き分けのある子などではない――そう自分を教育してきただけなの」
それから二条の方は、小悪魔めいた表情をした。
「すでに悪い子だというのなら、これからいくらでも悪いことしても良いと思いません? わたしと一緒に、あの高慢な愛すべき男を困らせてやりましょう。仏様にとっては、一も百も同じです」
蛍の方は、少しだけ悪い子になってみることにした。




