7-3.懊悩する伊勢の更衣
伊勢の更衣が、今の立場を得るまでには、数え切れないほどの言い訳を重ねてきた。
彼女の一族は、飛鳥の頃から神事によって朝廷に仕え、伊勢神宮の巫女が都から下向してくると、娘をかならず身の回りの世話につけるのが習わしだった。
文徳の帝の皇女、恬子内親王が斎宮としてやってきたのは、次代の帝が即位してしばらくしてからのことである。
伊勢の更衣がはじめて恬子内親王と対面したとき、
彼女の慎やかな美貌、上品な口ぶりや仕草に圧倒され、同じ女性とは思えず魅了された。
伊勢の更衣に、さまざまな礼儀作法や教養やお洒落の仕方を教えたのは、ほかでもない恬子内親王なのだった。
伊勢の更衣は、この幸せな時間が永遠に続くことを願った。
ところが、ある時、朝廷からの勅使として一人の貴公子が伊勢に到着した。
鷹狩の野鳥を捜すため、遠路はるばる帝の命令を受けてやってきたのだった。
斎宮の母親は、彼をよくもてなすようて手紙に記したので、
朝には狩りの用意立てをし、夕べに帰ってくると自分の御殿で鮑やふかひれを食事として出した。
二日目の晩、男は伊勢の更衣に高価な装飾品を握らせ、
「ぜひ斎宮にお逢いしたいのです」 と云ってきた。
――なんて図々しくて常識はずれな男なのだろう、と伊勢の更衣は思った。
それなのに、恬子内親王はおもしろがって、さほどつよく逢うまいとは言わない。
斎宮は神に仕える巫女であり、当然そう安々しく手を触れてはならない存在である。
男は正使として来ている人だから、むやみに離れた場所に泊めることもできず、伊勢の更衣は悩まされた。
翌朝、目を覚すと、部屋の隅に何枚も書置きがあるのを見つけた。
読むほどに感情がたぎってくるように思われたので、
ひどく相手を罵倒する内容を書くと、夜までとっておき、かなり遅くなってから部屋に投げ入れることで、相手の起きぬけに届くようにした。
この数枚の紙にたじろがない人物はまずいないだろうと推った。
どんなに気の大きな男でも、正面切って感情を否定されると弱気なものだ。
そして、こうした手紙は、震える手と、明確な意志に埋め尽くされ、狂気じみた目により書かれている場合、読み手の心に無類の力を及ぼすのである。
日暮れごろ、男がどう受け止めたか、何を言うのか知りたくて、伊勢の更衣は客間を訪れた。
在原中将は、桜の実を甘く煮染めたのをしゃぶりながら下女たちと歓談していた。
彼は娘方に対して、職務というよりも男性として接するように、よくこうして暇な時間を過ごしていたのだ。
伊勢の更衣が足を鳴らしながら部屋に入ってくると、
下女たちは逃げるようにして客間を抜けて行った。
在原中将は、伊勢の神聖なる領域ないし関係のあり方に、貴婦人に対する献身の誓いなどという俗世にまみれた価値観を、周囲のすべての人に広める雰囲気を持ち込んでいたのである。
伊勢の更衣がやってきたのを目にすると、在原中将の顔は喜びにきらめいた。
片手を勢いよく差し出して、
――とても気に入りました。ゆっくりお話しましょう、と言いたげな微笑だった。
伊勢の更衣は、この男は間もなく謝罪し、席を外してくれるものだと推っていた。
ところが、在原中将はいっこうに去らなかった。
じぶんの計画が一歩でも成功に近づき、その喜びと心配に震えるような、子猫が食事の支度をする飼い主を見るのにやや似た目つきで、伊勢の更衣を見張っていた。
この新しい友人との関係が上手く行く見込みはどれくらいあるのか、どんな人物で、どんな値打ちがあるのか、ぜひ知りたいという表情だった。
――大勢いるただの女性一人か、それとも意外な期待を持たせる新人か。
そんなわけで、在原中将はどっしりと構えてしまい、立ち退かせることはどうにもできそうにないと悟った伊勢の更衣だった。
観念して、どうせなら出来るだけ気に入られようと決心した。
交渉を進めるには、敵意より好意、あるいは少なくとも中立的な気持ちを持ってもらった方が良いと判断した。
そこまで譲歩して、排除しようとする態度は微塵も見せず、明るく場を保つように振舞った。
在原中将は感心して、こう思った。
――なかなか賢いな、上手く芝居をしている。
伊勢の更衣の方は、こう考えた。
――思いの外、感じの良い男のようだ。かつての有象無象のように、簡単に諦めるつもりはないらしい。
在原中将が席を立とうと決めたときには、
伊勢の更衣はこれまでと違った意味で彼から目が離せなくなっていた。
彼女は悲痛な想いで部屋に戻った。
あの男の傍にいるだけで、とらわれの身であると感じ、いずれは罪人が牢屋の扉をこぶしで叩くように、じぶんの心を無駄に騒がせ続けることになる気がした。
取り憑かれていることは確かで、もう在原中将から逃げられないのではないか。
それでも伊勢の更衣は、この因縁を否定しようとした。
神功皇后とともに弓矢をつがえて戦った女官のように、邪悪な敵を打ち倒す覚悟を決めるべきだと考えた。
在原中将はずる賢く、忍耐強く、しつこく、何度もこっそりと彼女を籠絡しようと手段を尽くした。
伊勢の更衣が求めてやまない褒め言葉や、酔わせるほどの甘いささやき――
そして寛大に批判を受け入れるような巧みな立ち回りによって、彼女のことを征服した。
――結局はあの手紙がだめだったんだ、それなら書こう、と伊勢の更衣は思った。
伊勢の更衣は、ほぼ毎夜、仕事を終えてから手紙を書いた。
初めは非難と説教を、そして在原中将が伊勢を去ってからは、日々の興味感心や感動した出来事について書き連ねることになった。
――彼に逢いたい、逢って文句を言ってやらねば、と書き続けた。
ある日、恬子内親王に退下の知らせが届いた。
清和帝の崩御にともない、職務から解放されたのだった。
伊勢の更衣は、恬子内親王の誘いを二つ返事で承諾した。
上京してからは、恬子内親王がかねてより親しくしていた二条の方の更衣として、風変わりな仕事を得ることになり、二人の敬愛する女性の間を取り持ちながら、今でもひそかな想いを募らせているのだった。
二条の方と、惟喬親王の一件について話を終えると、蛍の方が相談を持ちかけてきた。
「わたしはどうすれば、もっと正直にじぶんの心の内を話したり、相手と誠実に関わり合うことができるようになるのでしょうか」
蛍の方は悪気なく云った。
夕食会以来さまざまな出来事があって、
蛍の方は、じぶんを変えてみたいと考えるようになっていたのだ。
「それはわたしをそのように評価して下さっていると考えてよろしいのでしょうか」
伊勢の更衣の質問に、蛍の方は頷いた。
「良いですか、自惚れてはならないのです。じぶんがいかに強くあろうとも、正直であろうとも、余計な考えは浮かびます。それらを押し殺してこそ、人は他者に対して誠実になれるのです」
蛍の方には、押し殺さなければならないほどの秘密や感情はなかった。
それでも、信念を持つことで、人は強くなれるのだと理解した。




