7-2.詠嘆する和琴の方
在原中将に逢う度に、和琴の方は何かとんでもないものに出会ってしまった、という思いを新たにさせられた。
かつては、父親の紀雅楽頭有常ほどに奇妙な人間は存在しない、と信じていた和琴の方だった。
しかし、在原中将は、それを越える目新しさによって人を興奮させる新種の人間、あるいは一つの世代の始まりを告げる生き物で、
いままで書物の中で見知っていたのとはまるで異なり、芽生えつつあるものに特有の魅力を周囲にまき散らしていた。
飛鳥の朝廷では、天武の帝のような雄々しく武芸に秀でた男性が理想とされ、
平城宮では、唐風の知識や所作を身に着けた出世欲にあふれた人物が一般であった。
それなのに、ここに現れた在原中将はというと、男性らしさなど全く意に介さないのだ。
洗練されていて、心のありかが曖昧で、不安や動揺、優柔不断におちいりやすく、神経を鎮めるための怪しげな薬なら、すべて試してみたように見える。
桜花の方や二条の方も、実際のところ、めったにお目にかかることのできないほどに奇妙な女性なのだが、彼女たちを統率し、命令する最もおかしな指導者が在原中将なのだった。
和琴の方は、在原中将のうちに、人を魅力するために準備され、訓練された作り物の性格の味わいを感じていた。
それは唐の後宮で出されるような、物珍しくて惹かれてしまう繊細な贅沢品だ。
人びとは目を留め、心をときめかせるのだが、それは欲望と空腹感を刺激するためだけに調理され、見せびらかせるために設えらている。
――在原中将は決して自分の本心を明かさない、何かをかくしている、と和琴の方は考えていた。
在原中将が、じぶんは奈落への坂を下っているところなのだとはっきり自覚したとき、この成行きがはらむ危険性について、どう評価するのだろうかと考えた。
在原中将の挑発的な振舞いのすべてが、宮中の公卿たちに不興を買っているだろうことは想像に難くない。
彼らが本気で在原中将を追い詰めようとしたら、わたし達は一体どうなってしまうのだろうか。
在原中将を崇拝する女性たちは当然、彼にされたのと同じことをするだろう。
つまり、仔犬が飼い主のあとを追うように、在原中将を黄泉の国まで追いかけて、多かれ少なかれ自分を悲劇の物語の主人公として世間の涙を誘いながら退場することを望むのだ。
――わたしはそんなのごめんだ、と和琴の方は思った。
在原中将は、そうした後追いを望むのだろうか。
彼はこれまで誰に対しても、その手の内を見せたことなどないし、本当に愛した女性は、ただ一人もいないのだろうか。
日々、数刻の間にも、感情が激しく高まって、すぐに理性で押さえつけようとしたということは、一度もないのだろうか。
あの夕食会からの帰り道――
いろいろなことで頭に血が上った常連たちは、音楽のあり様をめぐって尽きることのない議論を続けていた。
誰も彼もが、現世での満足を得られずに心乱れ、憂鬱を抱えているのが伝わってきた。
和琴の方がいつものように在原中将に話題を持ちかけようとすると、彼の表情に見たことのない曇りがあるのに気が付いた。
悲しみや焦燥といった感情を悟らせまいと、無理な笑顔で取り繕おうとするような、そんな奇妙な顔つきだった。
和琴の方は、このとき初めて在原中将の本心の一端を知ることができた気がした。
――その理由は何だろうか、新しくやってきた長岡の姫君と関係があるのではないだろうか。
周囲を振り返ってみても、蛍の方の姿はなかった。
和琴の方は、不愉快になった。
在原中将は、これまで人びとの好奇の目を歓ばせるだけの気取り屋には、誰も意識を向けてこなかったはずだ。
しかし、彼らと比べても何者でもない自分、人混みや夕食会で名前が呼ばれたからといって人に注目されるわけでもない自分――
そんな自分は在原中将にとって何と見なされるのだろうか。
ただの頭でっかちな、女性に相応しくない教養のみを備えた人物、なのかも知れない。
――もしも、わたしが男でありさえすれば、と和琴の方は考えた。
自分の知識を活かして宮中での名声を得たのなら、紀氏の家名を再興し、
在原中将に臆することなく話ができるのではないかと思った。
和琴の方もまた、自らの本心を相手に伝えることができない。
陸奥の方や桜花の方のような余りに明けすけな態度の女性たちを冷笑しつつも、どこか羨ましくて、自分もそうなれたらと、ひそかに希望と尊敬の念を抱いていた。
在原中将から手紙を受け取ると、その長短に関わらず、幸福が天から降ってきたように胸を打たれ、出逢いの約束がそこに記されていたときには、永年のくびきが解かれたように嬉しかった。
なのに、どう返事を書くべきなのか分からない。
歓喜の時間が過ぎ去ると、危機感だけが身を焼くのを感じた。
「出師表」を書いた諸葛亮でさえ、これほど悩まされることはなかっただろう。
そしてある晩に、胸中でわだかまる感情のために目がさえて眠れないとき、
身体は取り憑かれたように勝手に動いて、文机に向かって筆を執ると、さまざまな書物の断片を白紙の方に書き始めた。
手紙というよりも雑書のような形式で、繋なぐに相応しい文章の数々を、苦痛のわななきを覆い隠すようにして記して行った。
――勉学は抜萃及び雑評を繰り返すに如くはない、と『韓昌黎集』にある。
だとすれば、手紙を書いて、自分の想いを伝えるには、どうすれば良いのだろうか。
二条邸の渡り殿で、ぼんやり庭を眺めていると、蛍の方が訊ねてきた。
「和琴の姫君は、いつも唐の国の書物を読まれております。そこには何か理想となるべき女性の姿は描かれていたりしませんか」
蛍の方は、悪気なく云った。
夕食会以来さまざまな出来事があって、
蛍の方はじぶんを変えてみたいと考えるようになっていたのだ。
「それは難しい質問ですね」 と和琴の方は答えた。
「多くの典籍では、女性は傾国の元とされ、戒められています。漢の時代には、『烈女伝』という本も書かれましたが、過激なことばかりでどれも事実とは思えません」
蛍の方は、少しがっかりして、
「では、姫君はどんなことを学ばれるつもりなのでしょうか」 と重ねて質問した。
和琴の方はしばらく考えてから答えた。
「孔子の言葉が記された書物はお読みになったことはありますか? 実に素晴らしい意見ばかりです。彼の言葉のほとんどは疑問や反語により成り立っていて、意志の強さに反して頼りない口ぶりばかりです。しかし、わたしは却ってそこにこそ孔子の教えがあるように思います。どれだけ学識があろうとも、人間は迷いもすればあやまりもする――彼の言葉は誰よりも正直だから人の心に響くのです」
こうした返事は、何だかわたし達全員に向けられて発されたように、蛍の方には思われた。




