6-2.勇気を出したくて
小野宮惟喬親王は、文徳の帝の第一皇子であり、
在原中将のもっとも敬愛する人物のひとりだった。
「どうしてまた突然に、」 と蛍の方は驚いた。
「惟喬親王は皇位を望まず、一生を優雅に過ごすと決められた方であると耳にしておりました。来世に思いを寄せるには、まだ若すぎるのではありませんか」
在原中将は、暗い面持ちで云った。
「それは小野宮さま自身が流しておられた評判なのです。文徳の帝は、生前より病を得ることの多い方でした。ゆえに即位して、数年もしないうちに、次代の皇位を誰に禅るべきなのか、議論が絶えなかったのです」
惟喬親王は、第一皇子でありながら、その資格を奪われたのだという。
藤原摂政良房は、文徳帝と自身の娘との間に生まれた惟仁親王――のちの清和帝を推挙し、立場を譲らなかった。
飛鳥の地で律令が定められて以来、皇位を揺るがすような主張は、もちろん許されるはずはなかった。
それでも、惟喬親王の血縁にあたる紀氏や橘氏は、承和の政変を経て、すでに宮中での発言力を失っており、この強引すぎる議論にあらがう術がなかった。
「惟喬親王は以後、自身の振舞いにひじょうな注意を払うことを強いられたのです。承和の政変で謀反の疑いをかけられた皇子のことを知り、その寂しい半生を自らも味わうことになるのか、つねに怯えておられました。しかし、人前では決して弱みを見せず、気高くあろうとしていた。それがもう限界を迎えたのだ、と手紙のなかには記されていました」
――業平、わたしは貴殿を失望させることしかできない男になってしまった。そもそも、わたしには誰からも崇敬されるほどのものなど持っていなかった。あまりに弱すぎたのだ。有常には結局、一度も良いところを見せることができなかった。貴殿はわたしの最も素晴らしい友人だ。にも関わらず、どれだけ大切に想ってくれようとも、それ以上のことを何も返すことができないのだ。わたしは貴殿と親しくすることができたのを誇りに思う。
「わたしは手紙を読んだとき、落胆とともに激しい怒りを覚えました。なぜ小野宮さまのような方が、こうした運命を選ばなければならないのかと。手紙の端には、濡れたような跡もあって――それで気持ちを推し量るには十分でした」
在原中将は、外の景色をのぞこうと、蛍の方から顔をそむけた。
肩や手が小さく震えていた。
「申し訳ありません。このような話をするために貴女をお呼びだてしたわけではないのに」
在原中将はこれ以上、言葉を継げなかった。
蛍の方もまた、何と返事をすれば良いのか分からず、沈黙した。
ある高名な僧侶によれば、
落胆とは、思いがけないきっかけからおちいる哀しみの感情なのだ。
それは落ち込みとは異なり、突然のことで、深い悩みの種となる。
あったはずの道が崩れ去り、予定していた未来への希望が突然断たれてしまえば、わたし達は絶望するほかない。
蛍の方は、どうすればその感情が和らぎ、目の前の想い人を慰めてあげることができるのか分からなかった。
――結局は時間が解決するしかないのかも知れない、ゆっくり気持ちを休ませるための時間が、と蛍の方は推った。
それでも、自分にもっと知恵があれば、もっと力があれば、もっと勇気があれば、そして、もっと優しさがあれば、と考えざるを得なかった。
在原中将にかけるべき言葉は見つからないのに、不安ばかりが強くなって、
二人は永遠に親しくなることのない運命にあるのではないかと思った。
――二条の方ならどうするだろう、と想像した。
何かきっと相応しい言葉を知っていて、その気遣いの一つひとつが在原中将の慰めになるはずだった。
なのに、いま彼の隣にいるのは、泣き虫で頼りのない、いつまでも大人になれないままの小娘なのだ。
考えても録な意見は出てこないし、過去のさまざま難関を乗り越えてきた聖賢たちの言葉もほとんど知らない。
――やっぱりわたしは立ち止まるしかない。
前に進むだけの力を、じぶんは何も備えていないような気がした。
――業平さまでさえ悲しみに動けなくなってしまっているんだ、それならわたしになんて何もできるはずはない。
蛍の方は、身体の力が抜けて行くのを感じながら、かつての落胆した母親の姿を憶い出した。
父親が政争に敗れ、家からいなくなってから、もともと古風な性格であった母親は、いっそう控え目で、大人しく、仏道にひかれていった。
分からないながらに多くの典籍を筆写し、その内容を蛍の方に語ってみせた。
母親は間違いなく落胆し、現世での何かを諦めていたことが分かった。
それでも、蛍の方は母親を弱々しい人間であると感じたことはなかった。
貧しく頼りとすべき親族はなくとも、娘のことを誰よりも愛し、絶望のなかでも立ち止まることをしなかった。
とにかく今を少しでもましにしようと、あがいたのが母親だった。
――わたしも何かを変えなければ、と蛍の方は思った。
在原中将と前に進みたいという想いは、蛍の方にとってどうしても諦められないものだった。
在原中将は外の景色を眺めながら、物思いに沈んでいる。
――蛍の姫君のために何かを言わなければ、しかし、わたしには気力が残されていないのだ。
在原中将は、自らをあざ笑い、かつ失望し、運命を呪っていたから、
手の上にある何か暖かいものに気付くまで、しばらく時間がかかってしまった。
それは小さくて、震えるほどに弱々しくも、確かな意志を感じる手だった。
「業平さま、とにかくお伝えしたいことがございます。わたしは誰が相手でも、本当に夢中になるようなことはありませんでした。それでも、貴方さまであるからこそ、勇気を出そうと決めたのです」
蛍の方は、在原中将の手を強く握った。
「わたしは偉そうな人も、嫉妬深い人も大嫌いです。批判や攻撃の矛先がわたしであれば、全て我慢してみせます。でも、わたしの大切な人――とくに業平さまのような大好きな方の場合は、そうした押しつけみたいなことは、わたしが全部お断りして見せます。温かいお付き合いを壊してしまうような方はいりません。ご覧のとおり、わたしは礼節も知らないし、不器用だし、寛容でもありません。それでも、業平さまには、何も隠しだてはいたしません。出家したからって問題はありますか? お二人の友情は政略によるものだったのですか? もし何もかも上手く行かなかったら、その勝負から逃げてしまえば良いのです。どんな病も時を経れば治ります、違いますか?」
在原中将は、彼女のことを見つめていたけれども、すっかり打ち負かされていた。
すでにその声、その仕草、陶然とさせるような態度に締めつけられて、
蛍の方がこんなにも近くにいてくれたことに心を震わせながらつぶやいた。
「試してみましょう。それでも辛けば仕方ありませんね。貴女の優しさに、苦しむだけの価値はあるのですから」
「それなら、もうこのことをお話するのは辞めましょう」 と蛍の方は言った。
「摂家のことなど二度と話すことはありません」
そして、心配事とは関係ない話題へと会話を引っ張っていった。
帰路についたとき、在原中将は彼女の恋心に救われた気分になるとともに、
蛍の方から頼まれて、どこへも行かないと約束してしまったのに悩まされていた。




