6-1.ごまかしの言葉
暮れ方、想い人の到着を待つ蛍の方は、落ち着きがなかった。
二条の方から借りた牛車には、どうにも慣れなくて、
狭い車の中で何度も手を握ったり、物見の奥から周囲をのぞいたりしながら、じぶんが高貴なお姫様になったような気にもなり、姿勢を正したりした。
装いは、二条邸での夕食会のときと比べて少しだけ華やかなもので、
萌黄色の小袿に、白地の小袖を重ねて、ゆったりとした紅の長袴を絞めていた。
在原中将は、しばらくして生真面目な顔でこちらを窺うと、
「これはやはり可愛らしい」 と云った。
「次の機会には、必ず化粧具をお持ち致しましょう。その素敵なお顔をもっと良く見せていただきたいのです」
在原中将は、彼女の手を取り、改めて挨拶すると、踏み台も使わず牛車に乗り込んできた。
在原中将は、しばし沈黙を続けることで、蛍の方の戸惑いを確かめた。
蛍の方は、何と言えば良いのか分からず、相手がきっかけをくれるのを待っていたのだ。
――少々いじわるしてしまいたい気持ちもあるが、と在原中将は思いながら、率直な態度でのぞむことを決めた。
「さて、単刀直入に参りしょう。先日の夜はいかがなさいましたか? 貴女をひどく傷つけてしまったのでしょうか? お手紙の内容もあまりに淡白で寂しいものでした」
蛍の方は、言葉に詰まりながら答えた。
「承知しております。本当に失礼しました。わたしは長岡の地を出たことがありません。作法も知らなければ、身をわきまえることもできないのです。このままお別れするべきなのかとも考えました。貴方さまに何とお返しするべきなのか、何も分からなかったのです」
在原中将は、哀しげな声でつぶやいた。
「貴女をずいぶん苦しめてしまったようだ。わたしはどうかしていた」
「いえ、わたしが悪いのです」 と蛍の方は続きを言わせず答えた。
「わたしのよく分からない心がご迷惑をおかけしてしまいました。もし業平さまを責めてしまうのなら、この件はあまり話さない方が良いのだと思います」
在原中将は、車副の従者にむかって言った。
「すまない、どこへでも出していただけないか」
牛車がゆっくり動き始めると、揺れに乗じて在原中将は身を寄せた。
「今日はお話するために来ていただいたのです。ちっとも怖いことなどないのだと、十分に納得してくださるまで、鳥羽へも水無瀬へも参りましょう。彼らには相応の絹衣を渡す約束をつけてあるのです」
在原中将が笑みを浮かべると、二色の狩衣が華やかさを添えた。
蛍の方は、口ごもりながら云った。
「わたしの振舞いは本心ではありませんでした。ただ、意気地がなくて、つまらないごまかし方をしようとしてしまったんです」
在原中将は、真面目な面持ちに戻って、彼女の言葉を引き取った。
「承知しております、姫君。それは恋によって誰もが通る道なのです。わたしは都で女性たちをもて遊ぶ男として、ひどい評判を立てられております。もちろん、真実ではない、とは申しません。ですが、それらの評判のほとんどが年若い娘方のほんの仇心から生じているのです。なかには病気のようになって苦しむ方もおられるかも知れません。でも、じきに治まって、自分の気持ちに整理がついて行く。かつての貴女さまは、そのような状態だったのです」
在原中将は、様子をうかがいながら続けた。
「どのような強い感情も、いつかは弱火で温めるような優しいものとなり、愛情というのは完成して行くのです。どの友人についても、みんなわたしのために尽くしてくれるし、慕ってくれるし、時には忠実にもなってくれます。そのためにも大胆かつ正直でいたいのです。いまのわたしほど誤魔化のない人物にお会いしたことは、これまでにありますか?」
在原中将があまりにも自信たっぷりで、飾り気がないと同時に剽軽でもあったので、蛍の方はつい咲ってしまった。
「貴女さまがこれから親しくする友人も、」 と在原中将は続けた。
「そのような感情の火に何度も焼かれた者なのです。貴女さまが焼かれるよりも、そう、ずっと前から。もう何度も地獄の炎で焼かれて焦がされた罪人ですので、今さら苦しむことなどありません。あまりお気になさらずとも良いのです」
蛍の方はどう返事をすれば良いのか分からなかったけれども、
ただ一つ感じたのは、すぐ傍にいる貴公子は、もしかしら思っていたよりもずっと繊細で、打たれ弱い人なのではないか、ということだった。
そうでなければ、このような意見や気遣いを持てるはずがない。
――この方の心根は、かつて長岡の地で拝見したときと大きく変わっていないんだ、と蛍の方は憶った。
「たとえ苦悩を感じなかったとしても、」 と蛍の方は云った。
「業平さまが傷付いても良い理由にはなりません。わたし達の心は、そのなかでふくらんでいく感情に身を支配されてしまったら、その例外となる人はいないのではないかと、近ごろはそんな気がしております。それに何かあったのですか? いまの業平さまはどこか普通ではない気がいたします」
「貴女さまは本当にお優しい」 と在原中将は云った。
「わたしが弁明するはずが、かえって慰められてしまうとは」
在原中将は、しばらく黙り込んだ。
深く悩んでいるようにも、不安に怯えているようにも見えた。
「たしかに、少なからず問題を抱えております」
在原中将は、重い口をひらいた。
「ですが、わたしにできることはありませんし、お話して愉快になるとも思えません。貴女を宮中の問題に巻きこみたくはないのです」
在原中将は、組んだ両手を膝の上にのせて、軽く彼女の方へ身を乗りだすと、打ち解けた態度をしめすようにして云った。
「どうか聞いてください。わたしは本気です。余計な心配事のせいで、貴女との幸せを失うわけにはいきません。都でたいへんな事件がおこる――なるほど、結構です。わたし達には、全く関係ないではありませんか。わたしは貴女と、貴女はわたしと、幸福でありさえすれば、何が差し障るというのです。わたしは貴女を幸せにしたい、その一心なのです」
在原中将が何かを隠そうとしているのは明白だった。
相手がそれを隠したいと思うのなら、わざわざ追求するべきではない――
かつての蛍の方なら、そう考えていた。
でも、本当にそれで良いのだろうか。
在原中将に手紙を送り、再会する決心をしたのは、前に進もうという意志をしめすためだった。
家族をなくし、捨てられた都で過去の恋に追い縋るばかりの自分を、少しでも変えてみようと決めばかりだというのに、ここで退き下がってしまっては、同じ因果にとらわれて、似たような結末を繰り返してしまうばかりではないか。
蛍の方は勇気を出して言葉をつないだ。
「だとすれば、幸福のためにわたしは業平さまのお話をうかがいたいと思います。誰かが不幸なままでは、わたしは前に進みたいとは考えられないのです」
在原中将は少し意外そうな表情をしてから、柔らかい微笑を浮かべると、蛍の方を見つめて云った。
「小野宮惟喬親王が出家することを決意されたのです」




