5-3.あじけない礼節
筆使いこそが、文章よりもずっと三芳野の姫君の心情をよく伝えた。
文字の震えや、何度も墨を付け直した跡が、三芳野の姫君の不慣れな事に対する不安や葛藤を表していた。
三芳野の姫君がいつも従者に代筆を依頼していたことは分かっていたし、年若い女性であれば、決してめずらしいことでも恥ずべきことでもなかったので、
在原中将は、特に何かを思うことはなかったものの、姫君の性格とは、遠くかけ離れた丁寧すぎる文章や成熟した筆使いには、やはり味気なさを感じていた。
三芳野の姫君に心をひらいてもらうためには、ずいぶん苦労した。
初めて出会ったときから、本人が思っているような恋をしているわけではないと感じていたので、在原中将はどのように親しくするべきなのか、正直に言って悩まされた。
それから、警戒心が強いところ、密かに他人をうらやましく思っているところ、ひどく敏感で、感情を押しつぶしてしまおうとするところなどを、少しずつ理解をして行き、そのような弱さを乗り越えてもらうため、敬意や好意を示し続け、自然な共感をし合った結果、ついにここまで来たのだった。
とくにここ数ヶ月は、西京の女君の協力もあって、少しずつ自分の意見を主張できるようになった。
あのとき――つまり、在原中将からの直断な言葉を受けて蛍の方がつい逃げ出してしまったとき、彼女の跡をじぶんの意志で追いかけようとした三芳野の姫君は、今までになく勇敢で美しく感じられた。
遠回しすぎるように思われた貴公子の思いやりは、予想外なところで達成されたのだった。
在原中将は、満足して最後の手紙を開いた。
蛍の方は、あのまま何も言わず、代わりに手紙を書いてきた。
短い手紙で、ほんの一枚で終ってしまった。
在原中将は、それを手に取って、波斯風の室内履きに足を入れると、
長椅子に寝そべって、もう一度その内容を読み返した。
在原中将は驚き、かつ失望した。
堅苦しい言葉で、夕食会に招待してくれたことへの感謝と、礼儀ばかりの親愛の情が記されていただけだった。
落ち着き払った手運びに、きれいに折りたたまれた紙を見ると、蛍の方の無情さがうかがわれた。
――蛍の姫君はわたしから去るつもりなのだろうか、と在原中将は苦悩した。
手紙から伝わるのは、
――以前と同じ平和で退屈な生活に戻ります、夕食会には興味がありません、という雄弁な別れの挨拶だった。
在原中将は、何度も焦りと怒りとの激情をこめて、一枚の散文を冒頭から読み返した。
思わない宣告に茫然としながら、小部屋のなかを手紙を持って歩きだした。
葡萄酒が飲みたくなって、部屋の奥の手箱に近づき、二条の方から盗んだ秘蔵の一本を取り出して開けた。
葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば 琵琶、馬上に催す
酔うて沙場に臥す 君笑うこと莫かれ
唐の詩人である王翰は、西方の戦線に征く兵士に思いを寄せて「涼州詞」を詠んだのだが、どうも今の自分の姿を上手く言い当てているようだと、在原中将は思った。
一口含んでから銅鏡の方に向うと、不機嫌そうな若い男性が、一歩ずつこちらに近づいてくるのが見える。
銅鏡の表面のゆがみに従って、彼はいろいろな表情や角度を見せる。
すぐ傍まで近寄って立ち止まり、相手に向かって軽い挨拶と微笑みを――
つまり、「素敵じゃないか」と言うように親しげに軽くうなずく仕草をした。
目許をよく確かめ、歯を見せ、後れ毛を直し、両手に腰を当てると、また頷いて、今度は全身をよく見渡せるように少し離れて横向きになった。
在原中将は、かつては毎日こうして自身の姿を眺めていた。
二条の方は、その場面に出会すと戯談めかして、
「このままだと家中の鏡が磨かずともすり減ってしまうわ」 と云った。
自己愛こそが在原中将の魅力と、多くの女性たちに対する支配力の源なのだ。
わが身をとことん見つめ、顔立ちの繊細さと体つきの品の好さを慈しみ、
それらを更に引き立てられそうものなら、何でも手段は選ばなかった。
一見して分からないほどの微かな色合いに工夫を重ねては、優雅さに拍車をかけたり、口もとの不思議な愛嬌を強調したり、
ありとあらゆる技巧を追いかけては、じぶんを魅力的に見せるうちに、他人により気に入られる術を自ずと発見して行った。
――しかし、陰気な表情のわたしは、どうも不気味なほどに父君に似てきた、と在原中将は思った。
もし在原中将がもっと美しく、自分の容貌に対して無頓着だったなら、初対面で彼の魅力を悪くないと思った者のほとんど全員を恋へと陥らせるほどの色めきを手に入れることはなかっただろう。
在原中将の父君は、美貌に恵まれながらも、いつも顔色が悪く、神経質そうに人の様子を窺うのが癖だった。
――阿保親王、あの男は本当の意味での負け犬だ。
しばらくして、立っているのも少し疲れてきたので、こちらに微笑を向け直した銅鏡の中の美男子に対して在原中将は云った。
「やるべきことは決まってるじゃないか」
例の彼も口唇を動かして、そう答えた。
在原中将は文机にむかって筆を執ると、橘花の透かし刷りをした紙に文面をしたためた。
なるべく丁寧な言葉遣いで、相手の心になるべく波風を立てないような表現を心掛けた。
――明日の夕刻、あの出会いを果たした桂川に架かる橋の上でお待ちください。わたしは必ず一人で参ります。貴女の怖れておられる不安についてお話し、ご安心いただきたいのです。わたしは貴女のお友達のつもりです。明日はそのことを証明いたします。
手紙には、下手な香付けはせず出した。




