5-1.惟喬親王の栄光
明るく照らされた小さな部屋で、壁にも天井にも、松原で外交をする友人が韃靼から輸入した見事な布が張りめぐらせてあった。
いずれも黄金色の砂沙に更したような黄色い地の上に、大陸独特の青緑色を基調とした鮮やかな線描が施され、屋根の端がそり返った奇妙な建物と、馬を駆る弓人の姿が描かれていた。
調度品もなかなか揃っていて、黒漆塗りの櫛笥の上には、小豆の洗顔品や、白油を塗るため化粧筆などが置かれ、その隣には、火取や洗台が一つずつあり、いずれにも舞鶴の金彫がなされていた。
また、当世風のお洒落をするためのあらゆる道具や器具の、ややこしくて繊細な使い方をするものが無数に並べられている。
この離れの小部屋には、膝を折って座るためのしとねだけでなく、唐風の椅子が二脚と、折りたたみの床几が壁に立てかけられていて、どれも肌触りよくふんわりとしており、疲れた手足や、衣装を脱いだ体をそのまま休めるのに便利だった。
さらには銅製のよく磨かれた鏡が、その顔貌をよく引き立たせるのに、いつも役立っていた。
この部屋の主人はというと、いまは湯浴みのために不在なのだけれども、彼がいつも可愛がっている猫が撫でて欲しさにやってきた。
猫は文机の上の筆置を突付いて遊び、ぴょんぴょんはしゃぎまわっては、尻尾で琵琶を鳴らした。
この文机は、吉野の桜材を切り出して作らせたこだわりの品であるにも関わらず、散らした紙や、封切りしただけの手紙などに覆われていて、日記はつけず、史書が一冊もおかれていないのが、彼の性格をよく表している。
唐の薄絹で編られた部屋着をまとって長椅子に寝そべり、しなやかで引き締まったきれいな素肌の両腕をつきだし、まとめた黒髪の輝やく束をなびかせた姿で、火照った身体を小部屋を抜ける風に冷ましながら、夢うつつの想いに耽るのが、在原中将の嬉しみの一つだった。
二条の方が、床をならしながら入ってきて、一通の手紙を差し出した。
在原中将は受け取ると、筆跡を眺め、封を破って開け、
最初の数行を読んだだけで、嘆息をつくと、二条の方に云った。
「小野宮さまの出家への決心は、すでにかたいようでおられる」
一人になってから、在原中将は浮世の哀しみに沈んだ。
初めの数語だけで、惟喬親王の心はすでに現世への想いから離れていると分かるには十分だった。
一度敗れてしまった者にとって、現世で生きるのは予想していたよりも難しかった。
惟喬親王は、新帝の即位に際して、数ヶ月も前から、今までに誰もしたことがないほどに、尽力しつつ、かつ慎重に行動し、気遣いや淑やかさを重ねて、宮中への出入りを繰り返していたのだった。
その結末としては、余りにやるせないものだ。
惟喬親王は、公卿たちに親しみを以て応じているようでいて、実際はつねに疑いの目を持ち、気を許さず、とくに藤原摂政基経に対しては、絶えず差し向けられる権謀を通じて用心を怠ることができないでいた。
一度は皇位を得る機会を失いながらも、ここまで宮中で政治的な役割を果たして来られたのは、出自や勢力を問わず、何度でも差し向かいの話し合いをして、その身に備わった親切さの全てをかけて、相手の心をとらえるための知的な努力を最大限に傾けたからだった。
水無瀬の離宮では、しばしば歌合や管弦の会を催しており、
紀雅楽頭らとともに公卿たちに感動を与え、どうにか打ち解け合うことはできないか苦心している様子だった。
しかし、昨夜の夕食会では、打ち負かされた男の白状、そして優しさが足りないときの縋りつくような哀願が、その瞳に宿りはじめていた。
惟喬親王のような心まで高貴であろうとする方にとって、
こうしたまなざしは、在原中将に予想できないものだった。
藤原摂政基経は、実に頻繁に驚くべき手際の良さと飽くなき野心によって、
敵対するあらゆる男の心に密かな苦悶を生じさせ、自ら勝負の場から降りさせることを狙っているのだった。
彼らが少しずつ自分の計略の力に占領され、征服され、支配されていくのを感じとり、摂政基経こそが唯一の権利者であり、気紛れで絶対的な無二の偶像となるのが、愉快で仕方ないのだろうか。
このような性格は、基経卿のなかでゆっくりと隠された本性が育つようにして成長して行ったとして、その本性とは、孟子の曰う"惻隠の情"や"辞譲の情"とは異なる戦闘と征服の本能だった。
優しく驕り高ぶることのなかった父親――その代わり決して出世することのなかった父親の藤原中納言長良のもとで成長する間に、
基経卿のなかで栄達の欲求が心のなかに芽生え、父親への一種の復讐として不満を返してやろうというという気持ちが漠然と生まれたのかも知れない。
二条の方は、そんな実兄のことが嫌いだった。
そうと口にすることはなかったけれども、在原中将には、分かりすぎるほどに分かっていた。
二条の方には、何より持って生まれた色気があり、物心ついたときには、じぶんはそれで自由な生き方ができるのだと気が付いた。
二条の方は、恋する男性たちを――もちろん、少なからず女性も含まれていたのだが、追いかけては手なずけることを繰り返し、これは猟師が、獲物のたおれるところを見たいがために必要に追いかけ続けるのと同じであった。
けれども、若い彼女の心は、優しく感じやすい都の姫君たちのように愛情に飢えることは全くなく、一人の男性からこればかりの寵愛を受けることも、恋愛によって幸福になることも求めなかった。
必要なのは、皆からの注目や賛辞、そして拝謁や祝福であり、彼女のお友達となるためには、その美貌に支配され、またどれほど身分が高かったり知的に優れたりする人物であろうと、相手が色気に負かされなかったり、他に意中の人物がいたりすれば、二人の関係は長くは続かなかった。
美しい姫様に夢中でいることが、彼女の認めるたった一つの関係性だったのだ。
もちろん、二条の方が結婚する前までは、と付け加えなければならないけれども――
結局は子どものままなのだろう、と在原中将は推っていた。
支配されること、言いなりになることが、我慢ならない二条の方にとって、
実兄の基経卿は、じぶんの人生計画そのものを脅かす敵だったのだ。
現世の栄達にこだわる基経卿にとっては、じぶんの自由を実現することを考えるよりも、周囲の世界そのものをじぶんの自由にできることの方が、ずっと大切だった。
ひとたび基経卿の軍団に編入されれば、征服者の権利として彼の所有物になってしまうようで、巧みな手腕によって、各人の弱点や長所、嫉妬や願望の性質を調節しながら配下を治めていた。
要求しすぎる者があれば、機会を見て追放し、のちに大人しくなったところを再び受け入れるとしても、すでに厳しい条件が課せられることになる。
彼らの一族は、在原中将が知るかぎりにおいては、二度と宮中で陽の目を観ることはなく、基経卿の主宰する恐ろしい遊戯に参加することさえも許されない。
そして、惟喬親王はというと、その勝負から自ら降りることを選んだのだ。
栄光ある敗北――そんな言葉が在原中将の頭に浮かんだ。
二条の方によると、手紙はまだあるというので、
在原中将はその一つひとつに目を通し始めていた。




