4-2.意志と覚悟
じぶんの意志を貫くために必要な覚悟とは、蛍の方がこれまでに生きて来て感じたことのないような重みを心に与えるものだった。
二条の方と在原中将の危険すぎた恋は、身分を問わず多くの人びとの話題となり、さまざまな批判を集めたのにも関わらず、
彼らに今もなお惹かれる友人たちがいて、そして蛍の方もその一人になることを望んでいるのは、心の強さや、じぶんに素直であろうとする性格に由来しているのだと理解していた。
ところが、意志を押し通すことは、とても恐ろしいことに思えるのだった。
敵は無数にいるというのに、どこまでも孤独な戦いで、誰にも共感してもらうことのできない正義を、世評の下にさらし続けなければならないのだ。
「わたしには、そもそもじぶんの意志も覚悟もありませんでした」
三芳野の姫君はそう言って続けた。
「だから、何も決められないでいます。わたしは恋よりも、じぶんの人生そのものを幼少期のまま前に進められないでいるのです。母親に望まれる結婚と生活は、幸福なものとなるはずでしたし、きっとそうに違いない。でも、それはわたしの幸せではなかったのです。それに叶うことのない運命にある願いだったとしたら、初めから勇気など持たなければ悲しい思いだってせずに済むのかも知れません」
「それでも、」 と蛍の方は秘めた想いを反響させる言葉を伝えた。
「幸せにならなければならないのではありませんか。在原中将は身分や常識にこだわるような方ではないと思います」
「その通りですね。でも同時に、心の奥底をよく見つめておられるのだと思います。人気者で、位の高い人間でも、彼のお気に召さなければ、あの邸宅には十も足を運べません。いつかわたしもお呼ばれが掛からなくなってしまうのでしょう。在原中将のことを表立って批判しても、嫌われることのない桜花の姫君には、どこか芯軸の強いところがあるのです」
桜花の姫君といえば、誰の目にも明らかなくらいに在原中将に惹かれていた。
それでも、決して自ら逢いたいとは言わないし、逢いたくないとも言わないのだった。
あるとき、在原中将は彼女に云ったのだとか。
――貴女に逢うために秋野の笹を分けて参りたい。朝露に濡れた袖よりも、貴女に逢えない夜の方がいっそう涙で濡れまさるのです。
すると、桜花の方はこう返した。
――ここには何もない海辺であるとはご存知ないのでしょうか、海人の足の重くなるまで通いくるのは。
在原中将は、なんて意地っぱりな姫君なのかと驚きながら、
今でも桜花の方のことは、愛すべき友人として思っているようなのだ。
「これではわたしは、在原中将の恋人どころか友人でいることもできないのです」
三芳野の姫君は、ひどく悲しそうだった。
自分でじぶんの願いを叶えてあげることができずに悩み、
ただでさえ小さな身体が、ずっと子どものように頼りなく弱々しく感じられた。
――姫君の想いはきっと本物なんだ、と蛍の方は思った。
在原中将への想いが本物だからこそ、三芳野の姫君は前に進むことができず、
母親からの指示との間に挟まれて、身動きが取れなくなってなっているのだ。
蛍の方は、心の中に思い当たる節があっても、ただ悩むことしかできなかった。
二人は似たような問題を目の前にして、同じように解決することができず、まさに手を取り合って話しをするしかなかった。
そして、三芳野の姫君は、例の貴公子について、分析し、議論しては、前に述べたことを繰り返して、また逆のことを言い、
蛍の方からの質問には、素直な熱意をもって、この問題に巻き込まれた当事者として答えたけれども、観察と類推とかごちゃまぜになっていて、途方に暮れているような感じも少なからずあった。
三芳野の姫君は云った。
「もしかしたら、在原中将のような方は一人だけではないのかも知れません。似たような男性が、都には十人、いやもっといるのではないでしょうか。わたしは物語のなかでは、たくさん知っています。ただ、やることがずっと大胆で、しかも妙に貴族らしくしているのですから、在原中将の交友関係はこの国でもっとも面白いものの一つになっています。わたしもその一員になろうとしているのですが……」
二人は気付かないうちに、庭の裏の方まで含めて池の端をかなり来てしまっていた。
さまざまな哥枕が踏まえられた庭作りとなっていて、本来ならたくさんの和歌が出来ていたところだった。
三芳野の姫君は、急に恥ずかしそうになって云った。
「すみません、つまらないことを何度も話してしまい。出来れば、忘れていただきたいのですが、本当に申し訳ありません」
明みつつある東の空が、二人の話してきた時間の流れを知らせた。
「あの、わたし達は」 と蛍の方は云った。
「これからは前に進まなくちゃいけないのではありませんか。わたし達に決められるようなことは、実際のところ、そう多くはないのかも知れません。しかし、わたし達が誰と恋をして、どんな将来を住ごそうとするのかは、この現世で選びうる幸せであることは間違いないのだと思います。死ぬか生きるかの間を悩み続けることは、苦しくなるばかりであると二条の方は仰られました。だから、前に進まなければならないのだと思います。在原中将のことを――そしてわたし達の心を知るためにも」
「わたしのような者でも」 と三芳野の姫君は云った。
「在原中将のお側にいることを願っても良いのでしょうか。生半可な気持ちでは失礼にあたりませんか」
「大丈夫でしょう。在原中将は女性に言い寄られるのは慣れっこでしょうから」
三芳野の姫君は小さく笑った。
「蛍の姫君は思ったよりも手厳しいのですね」
「そうしようとしてみました。わたし達は何か前に進むために覚悟を決めるべきなのでしょうね」
三芳野の姫君は、しばらく考えて云った。
「それでは、お互いお家に帰ったら、感謝の手紙を在原中将に送ることにしませんか。わたしはいつも自信がなくて、従者の女性に代わりに書いてもらっているのです。それを今日はじぶんの手で書いてみようと思います」
「また必ずお会いしましょう」 と蛍の方は云った。
三芳野の姫君は、待たせていた牛車に乗り込むと、
「あとで使いの者をやらせます」 と言って帰って行った。
――久方ぶりに明るい表情の姫様を見た、と彼女の従者は思っていた。




