4-1.いたずらな関係
とにかくどこかへ向かって走り始めていた蛍の方だったけれども、
すぐに息が上がってしまい、それとともに後悔にさいなまれた。
――わたしはなんて失礼な態度を取ってしまったんだろう。
思い返してみると、在原中将に対して、すごく傲慢で意地っぱりな印象ばかりを与えてしまったことに気が付いた。
在原中将を目の前にすると、どうしても普段のじぶんではいられない蛍の方だった。
手つきや声色などの総てが五感を狂わせ、知性の働きを鈍くさせてしまうような魅力にやられてしまう。
――今すぐにでも急いで戻るべきなんだろうか。
夜の景色に、ほのかに浮かび上がる二条邸の方を振り返った。
――でも、どんな表情してお会いすれば良いのか分からない。
蛍の方は、誰の目に見ても分かりやすく、その場を右往左往しはじめた。
ひたすら葛藤し、どんな選択をしても、まずい結果が訪れるような気がした。
思付く限りの出来事のすべてが不幸な結末を彼女にもたらし、
蛍の方の考え方を悲観的で内向的なものとして行くのだった。
――でも、そもそも、選ぶ権利などないのかも知れない、絶対に嫌われてしまったのだから。
そう思ったとき、蛍の方は絶望した。
こんなところに来てはいけなかったのだと|自分に言い聞かせて、すぐに長岡に帰ろうとした。
それなのに足は動かなくて、涙だけが流れてくる。
蛍の方は、どうしてもこの恋は諦められないような、そんな強い意志をじぶんの内に感じた。
この恋だけが、この現世で彼女がじぶんの意志でつかみ取ることのできる自由であり、叶えなければならない何かなのだった。
「なにかつらいことがありましたか?」
木々の間から控え目で自信のなさそうな声がした。
「在原中将と部屋を出られてからしばらくして、変な足音がしたので、どうも気になってしまい跡を追ってきたのです。ご迷惑でしたよね、申し訳ありません」
三芳野の姫君と呼ばれていた女性が立っていた。
「足をずいぶん痛めてしまわれたのではありませんか? お家まで送ります、母の従者に頼んでみますから」
「大丈夫、」 と蛍の方は答えた。
「わたしはやっぱり戻らくてはならない気がします」
三芳野の姫君は言った。
「業平さまは、時おり意地悪になられます。気になされない方が良いと思います」
「そうなのですか、少し意外です」
「やはりわたしに対してだけ、なのでしょうか」
三芳野の姫君は嘆息をついた。
「鹿肉の間にすごく酸っぱい野苺を挟んで食べさせたり、わたしが虫が苦手なのを知りながら、舞蝶を主題に和歌を詠み合わせたりするのです」
「可愛らしい遊びをなさるのですね」 と蛍の方は少し笑ってしまった。
「きっと姫君は、あの方から愛されているのだと思います」
「そんな、わたしに限ってあり得ません!」
三芳野の姫君は恥ずかしそうに否定した。
「わたしには大した教養もありませんし、何より業平さまからの寵愛を受けるだけの意思や資格がないのです」
「二条の方の夕食会に参加される客人は、特別な方ばかりのようですね」
「貴女もそう思われますか? いつも自信をなくしてしまいます」
二人は手を取り合って、庭の少し開けたところまで歩いて行った。
個人の邸宅の庭で、池の水が流れるような造りは、初めて見たと思った。
いくらか進んだところで、蛍の方は訊いた。
「在原中将は変わった方ですよね、どう思われますか?」
三芳野の姫君は悲しそうな顔をした。
「みんな初めはそう仰られます。しかし、じきにあの方の心の内を理解なされるようなのです。わたしには、まだ少しも分かりませんが……」
「そうは言っても、わたしも分かりませんでしたし、業平さまのことをほとんどしらないのですから、いたって自然のことだと思います」
「貴女も業平さまに恋しておられるのですか? 当然ですよね、みんなそうです」
蛍の方はびっくりして訊ねた。
「それくらいやはり魅力的な方なのでしょうか」
「それはそうとも言えるし、そうでもないとも言えるかも知れません。古風な男性――つまり、質朴で豪胆な、温かくて感じやすいような、そんな男性を理想とする人びとは、在原中将のことを毛嫌いするようです。嫌がるあまりひどい悪口を言い出したりもする。わたしの母親などはそうです」
三芳野の姫君は不安そうな表情をした。
「ですが一方で、都ぶりな色香をよしとする人にとっては、たまらない男性なのだと、みんな白状せざるを得ないでしょう。桜花の姫君は、いつもわたしに忠告してくださるのです――執着しすぎてはいけませんよ、と。それでも、まさに誰もが執着してしまうのです。別に恋によって死ぬわけではありませんし、大して苦しむわけではないのですが、どうしてあんな男なんだ、と頭にくるのです。在原中将にいたずら心があれば、貴女もそうなってしまいますよ。あれ、なんだか顔色が悪いような。失礼しました、連れまわしていろいろとしゃべってしまい……」
「お気になさらないで、」 と蛍の方は云った。
「それでは貴女は母上の不興を覚悟のうえで、業平さまとの恋をなされようというのですか?」
「いえ、在原中将との恋は母親が望まれてのことなのです。わたしは武蔵の国から母親の意向を受けて、都まで上ってきたのです」
時の帝の正妻との道ならぬ恋が原因で、在原中将が東国へと旅立った際に、
入間郡での宿を借りたのが、二人の出会いだったのだ。
三芳野の姫君の母親は、藤原を姓に持ちながらも、
先代が奈良の都での政変に敗れてしまい、地方官吏の妻としての地位に甘んじていた。
彼女は都への憧憬と野心を捨て切れず、自分ではどうしようにもならない宿命にあらがいたくて、夫や下女につらく当たることもしばしばだったという。
そこに在原中将が一夜の宿を借りにやって来た。
母親はすぐに中将がきわめて高貴な身分の人物だと察うと、
精一杯のもてなしを夫にさせ、自分たちの娘を妻として迎えてくれるよう直ぐに頼み込んだ。
だが、在原中将は、
「それはご令女の意思なのですか」 と言ったきり、そのまま旅立ってしまった。
母親は、なんて話が分からない男だ、と非難しながらも、娘を都にやる決心をした。
三芳野の姫君は都に着いてから、下女や使用人の話を通じて、この顚末を知った。
「だから、わたしは在原中将に対する強い意志のようなものが欠けているのです」
そう三芳野の姫君は云った。
「もちろん、在原中将はとても素敵な方で、あの方を目の前にすると言いようもない感情が沸き上がってくるのは間違いない事実です」
「それでも、」 と蛍の方は云った。
「母上の意向を叶えることはできないのでしょうか」
「ええ、そうなのです。わたしの恋には、全てにおいて必要な覚悟がないのです」




